小さな糸

だるまかろん

小さな糸

 小さな糸が落ちていた。昨日、私が穴の空いたズボンを糸で縫い合わせたからだ。当たり前のように、糸が短くなれば、繕うことをやめる。そして後始末をする。最後の玉結びをするのだ。

「玉結びが、できなくてね。」

「大丈夫、大丈夫。」

 そう思っていた。気づけば玉結びができるか分からないほど、糸が短くなっていた。そんな経験はないだろうか。

「こういうことは、頻繁にあります。あと少しで縫い終わるっていうときに限って糸が足りないのです。」

 こんな小さな糸が、人生と同じように感じられるのはなぜだろうか。地道に積み上げて頑張っていても、最後の後始末ができず、まるで全てが無駄になってしまう。

「奇遇ですね。私も、頻繁にあります。針と糸の準備をする時間や手間を考えます。そうして私は繕うことから逃れて、新しいものを購入します。」

 私には逃れたいという気持ち、楽になりたいという気持ちがある。私の高校や大学受験も同じだった。滑らないように、滑らないようにとリスクを減らした結果だった。

「でも……。」

 相手は、まるで伏線のように、言葉に空白時間を作る。

「嫌なことから目を背けることは、もう、やめようと思ったのです。」

 その前向きな様子に、私も背中を押された気がした。

「だから私は、地道にコツコツと、後始末をしながら、縫い合わせました。」

 その小さな糸が、その証だ。

「前向きに生きることは、苦しいことです。一度破れた部分を縫い合わせる時間は、もう何というか、泣きたい気分です。人は返し縫いをすることで強くなるのでしょうか。」

「いや、強くならなくていいのですよ。あなたは、繕う時間を有意義な時間に変えることができます。」

 ああ、だから私は繕う時間が嫌なのだ。そうしてまた逃げたくなった。

「小さな糸が積もれば、やがて山になりますよ。それを人は努力っていう綺麗な言葉にします。」

「それは、私も同じです。その山が無駄かもしれないということは目を背けます。」

 相手が同意した。私は、その小さな糸をゴミ箱に捨てた。

「人生を、やり直したいです。」

 そんな悩みを打ち明けた。

「私も、やり直したいです。」

 私達の共感とは、つまり安心だった。

「バタフライ・エフェクトって知っていますか。」

 相手は、そんなことを急に聞く。

「ああ、小さな蝶の羽ばたきが竜巻を起こすほどの威力を生む、といわれるものですね。それがどうしたのでしょうか。」

「あなたと私が会話をすること、それもバタフライ・エフェクトなのです。」

 会話をするだけで、何が変わるのか。

「あなたの言語能力を保つ時間を仮に三十分長くできたとしたら?」

 相手は不気味に口角を上げて笑う。

「自分の家族に最後の言葉を伝えることができるかもしれない。その最後の言葉は、とても重要な言葉だと、家族に影響を及ぼして人生を変えるのです。」

 そんな大袈裟なことは、あってないようなものだ。

「人生は、そんなに簡単に変えられないと思います。繕うのに時間がかかるのと同じです。」

「明日が、あなたの最期だとしても、同じことを考えますか。」

 相手は私の目をじっくりと見る。私の瞳孔が開く瞬間を一秒たりとも逃そうとしない。私は少し深呼吸をして落ち着いて考える素振りをした。相手に畳みかけるような、そんな話し方をする人間は、私は苦手だ。

「私は、何も言わずにただ静かに一人でゆくことが幸せだと思います。」

 相手は、その返答がつまらなかったのか私の瞳を見るのをやめた。

「私も、同じ考えです。」

 ああ、また複雑に絡み合った糸がほどけないまま、私は小さな糸をゴミ箱に捨てた。

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小さな糸 だるまかろん @darumatyoko

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