第16話

 食後のアイスを二つも平らげた優河は店員が食い逃げかと勘違いするような素早さで店を出て行った。


 時計を見ると午後十時。もう諒太は帰っただろうか。


 優河の馬鹿さに背を押されたらしい。グレイに行こう、唐突にそう思い、伝票を掴んだ。

 諒太がいなければ帰る。いればハイジの頭を撫でさせてもらう。それだけの話だ。知り合いだから不自然じゃない。


 心が決まると急に焦る。諒太が今この瞬間に帰ってしまうような気持ちになり、早歩きで通り過ぎた店に小走りで戻った。



 ブラインドカーテンの降りたグレイはまだ電気が付いていて、街灯の少ない夜にぽっかりと浮かび上がって見えた。


 "仕事終わりに友達と飲んでいたんだ。酔い覚ましに散歩してたらたまたま通りかかったんだ。"


 何に対する言い訳なのか。自分の考えている事が、ここまで来てしまった事が急に格好悪く思え、尻込みする前に思い切ってドアを開けた。


「すみません閉店……あれ? 灰島くんだ! 久しぶり、髪伸びたね!」

「ワン!」

「飯食ってて、この辺で」

「ふうん。良いところに来てくれたよ。ちょっとこれ飲んでみて」


 モヒートだ。ラム酒ベースの炭酸割り。


「うまいよ」

「他には?」

「ミント潰しすぎ」

「量が多い?」

「違う。潰しすぎだ。苦みが強い」

「もう! 最初からそう言ってよ!」

「いや、うまいよ。強いて言えば基本より苦みが強い。それだけ」

「なるほど。やっぱカクテルって難しいや。でも面白い。あれから結構、勉強したんだよ」


 そう言ってコーヒー豆を挽き始めた。ハイジはなぜかタオルを咥えて持ってきた。今日は濡れていないが目いっぱい撫でてやる。


「良かったなあハイジ。待ってたもんな。忘れられてなかったな」


 気まずいとき動物は良い緩衝剤になる。


「あのさ」

「ん?」

「なんか困ってる?」


 諒太は豆を挽き続けるし、俺はハイジを撫で続ける。


「余計な事だったらごめんな」

「ううん。ちょっと困ったお客さんがいて」

「客なのか?」

「え?」

「そいつは諒太の"客"なのか?」

「……違う」


 コーヒーを二つカウンターに並べると諒太は俺の隣に座った。


「実はさ」


 その後すぐに言葉に詰まり、諒太の目は潤んでしまった。俺は慰める方法を知らず、いつまでもコーヒーを冷まし続けていた。



 ◆ ◇ ◆ ◇



 途切れ途切れに告白した状況は喫煙所で聞いた噂と矛盾しなかった。


「二、三日連続で来ることもあれば、何週間か空くこともあって。店の前にゴミが撒かれる日もある。今日は来なかった」


 溜息をつき背を丸めた諒太は一回りも二回りも縮んで見える。


 何か察したのかハイジがおもちゃを咥えてやってきて俺達の間に座った。諒太に相手にされないと分かると上目づかいで俺を見た。物言わぬ目は人よりも雄弁だ。


 おもちゃを何度か引っ張り合い、頭を撫でて立ち上がった。諒太が俺を見る。そのアングルが今さっきのハイジと重なり諒太の頭まで撫でそうになった。


「また来る」



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