第9話

「いやあ助かった。本当に助かった」


 俺が作った酒を何事も無かったかのようにサーブした諒太は自作のレシピノートをカウンターに広げ「分量教えて下さい」と小声で頭を下げた。


 ジンとビールの割合を書き付け、ノートを見せてもらう。鉄板のカクテルは一通り勉強しているが、おまけでもバーを名乗るなら客より酒に詳しくなる必要がある。特に個人店ならメニューなんかあってないようなものだ。

 俺がまだバーテンダーなら気まぐれで世話を焼いたかもしれない。だが、俺は今、何者でもない。クソみたいなプライドが邪魔をして何も言えなかった。



 ハイジが吠えて客の退店を知らせる。美味いとも不味いとも言われなかった。時に無個性と蔑まれた俺の酒は完璧だ。


「俺もそろそろ」

「灰島君、うちバイト募集してて」

「いや」

「週末だけでもいいんだけど、どうかな」

「派遣があるから」

「そっか。でもまたカクテル教えて欲しいな。 お酒作れるなんて、もっと早く言ってくれよ」


 俺の帰宅を察したハイジが寄ってくる。湿った鼻を突くとくすぐったそうに顔を振った。  


「じゃあな、ハイジ」


 外に出ると雨風は落ちついていた。



 ボトルを傾ける感覚。ステアのスピード感。

 酒に関わる全てが懐かしく、少し痛かった。



 ◆ ◇ ◆ ◇



 それから毎週火曜の夕方、ハイジと諒太に待ち伏せされるようになった。待ち伏せと言っても繋がれたハイジが店の前に立ち、俺に気付くと吠えるのだ。そして諒太が笑顔で開けてくれるドアの向こうに吸い込まれ、一杯ずつ飲んで帰るのが習慣になった。


 最初は何かを期待されているようで落ち着かなかったが、あれ以来バイトに誘われる事はなく、時々カクテルについて質問されるくらいだった。諒太がもたついていようが俺も仕事に手出しする事はもうしなかった。


 難しい客について相談されたときは「蹴り出せ」と言った。諒太はへらへらして「真面目に答えてくれよう」と困ったように笑った。

 いつだか優河がクソ客にも頭を下げていると言っていた。あれは大袈裟ではなかったのだ。



「じゃあまた来週!」

「ワンッ」


 この声にまた来たいと思わされてしまう。諒太じゃない。ハイジの鳴き声だ。


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