第6話 最近見ないけどさ

「僕の小学校の頃ってさ……」


 そう言って語りだしたのは、先日来ていたBSS中年の男。

 名前を聞いたら『音取ねとり 和志かずし』というらしい。

 ───寝取られておいて音取とは、笑わせる

 と俺は思ったのだが、もちろん口には出さなかった。


 定位置いつものテーブルに座って珈琲を飲みながら、対面に座るマダムに向かって話している。その二人のために、今俺が用意しているのは例の150円の『まかない珈琲』だ。注文のときには「いつもの」と言ってください、と言い含めてある。他の客の手前もあるからだ。


「───月に一回、小学校に自分でお金持っていって貯金させられてた記憶があるんだけどさ、修学旅行の費用の積み立てに」


 それを聞いたマダムが、表情を柔らかくしてお話モードになる。

 今日は、ぱらぱらと小雨が降っているので、客は少ないのだ。


「あぁ~、あたしの頃もあったかしらね、それ」

 マダムはそう言って相槌を打っていた。

 俺はトレイを持って、そんな二人の前に行き常連さん専用の珈琲を提供する。


 そして、ぬかりなく用意しておいた自分用の珈琲も置いて、俺も対面に座り話題に加わる、が。

「──え、俺ん時は無かったような気がするな、そういうの」

 俺の回答は、ノーであった。そのような記憶は、俺には無かった。


 俺の時は親が直接振り込んでいたような、少なくとも直接現金を持っていった記憶は無かった。まあ、小学校の内部事情に関しては地域色も様々だろう。お金の取り扱いの方針などは学校毎に違っていてもおかしくはない。


「毎月、決まった金額で5年間積み立てるわけ?」

 すかさずマダムが質問を振る。さすが話術師、話の乗り方が上手いな。

「いえ、僕のときは……どういうわけか金額が任意だったんですよね。たぶん、貯金を通じてお金の勉強という意味も兼ねてたと思うんですけど──」


「え? みんな好き勝手な金額持っていくの!?」

 マダムが驚いて、さらに質問する。

 これはたぶん、話術師としてのじゃなくて、マジだな。


 音取は頷いた。

「はい。だから、お金持ちの家の子とか、すごい額持ってきて……貯金額も結構すごいことになってて──」


 そう言って、一口珈琲を口に運んだ。


「───それで、鮮明に覚えてたんですよね。そんな事あったなぁって。僕んち、貧乏だったから、毎月300円とか500円だけ持たされてて……」


 それは子供にとっては、少々辛い記憶でもあっただろう。しかし音取は、それでもしみじみと懐かしそうに語っている。


「───6年になるまでには目標額越えてたから、僕も無事修学旅行に行けたんだよね」

 そう言って嬉しそうに微笑む。

「今思っても、ありがたいことだよ」

 音取は、またしみじみと言っている。


 こういうところ、本当に心が綺麗な、いいやつだと思うんだけどな。


「なぁに? それ、貯まらないと修学旅行けないんですか?」

「うん、まぁ理屈だと、そういう事だよね。流石に僕の同級生には、そういう子はいなかったと思うけど」


 マダムの問いにそう答えて、彼はちょっと虚空を見つめた。


「……よしんば、貯まらなかったとしても、6年になるまでには追加で振り込むとかして、間に合わせてたと思うんですけどね」


「ふぅん」

 そう、相づちを打ってマダムも珈琲を一口。


「でもね……あれって、今考えるとえらく無用心だったよなぁって。しかも、結構残酷なシステムだよね? 小学校の頃から、リアルな貧富の差を直に見せつけられるわけで……」


 確かに。

 それは、素直にそう思う。

 洋画でも、クラスのミルク代を盗むとかいうエピソードが普通にあったりするしな。まして、任意の金額と分かってりゃ、金持ちの子供なんか標的にされるぞ。


 毎月大金エサ持ってくるところを眼の前で見せつけられるわけだ。その歳頃の分別のない手癖の悪い子供ガキにしてみりゃ、逆にたまったもんじゃないだろう。


「──最近だと、どうしてるんだろう?」

「普通に、振込なんじゃないか?──」


 その後も、音取は様々な話題を振り、再びネタがお金の話に戻ってきた。


「───月々の振込って言えばさ、会社の職場に毎月一回、銀行員が訪ねてきて積立金の集金に来てたよね? あれも最近じゃ、やってないみたいだね」


 あぁ。それは俺も、昔見たような気がする。


「原付きのカブに乗って、スーツ着た行員が中小企業の職場回って集金するやつな」


 だが、あれこそ今の御時世、リスク以外のナニモンでもないだろう。効率も最悪だろうし。今思うと、よくあんなことをしていたものだと逆に感心するくらいだ。


「結局ああいうのは、リスクと効率を考えた時点で無くなるのは間違いないわけだよね」

「そりゃそうだよなぁ……」

「しょうがないわよね、危ないもの」


 当たり前のことではある。少なくとも、俺はそこに疑問を持ったことは無い。

 だが、目の前のこの芸術家はそうではないらしい。


「でもね……。ああいうの、よかったなぁって思うこともあるんだよね。僕の時代は、流石にもう給料は手渡しじゃなく振込だったけど……」


 今さら気付いたが、つまりこの音取も以前は会社勤めをしていたことがある、ということだろう。


 どの段階で、それを辞めて絵描きになったのか。

 少々興味が湧いたが、それを聞くのは今ではないのだろう。

 さて、いつ聞けることか、聞く機会があるのか……。


「キャッシュレス化も必要な事だ、ていうのは分かってるんだけど。なんかこう、手触り感っていうか、実感みたいなものが現代にはような気がするんだよね。仕事も、パソコンのモニター越しで、できちゃうわけだし」


 彼は、便利だったらそれでいい、というふうには考えないようだ。

 さすが、芸術家は言うことが違う。


「……俺には、無い感覚だな」


 すると、音取は少し表情をほころばせて……。


しゅうさんだって、今時マニュアル車に乗ってるじゃありませんか? あれも、そういう手応えがあってのものじゃありませんか?」


 言われて気付く。

 確かに、俺の持ってる車は今では珍しいマニュアルトランスミッションの車だ。


「あぁ……。まあ、そういやそうだな」


 修学旅行からマニュアル車……。


 話していて思うのだが、このおっさんは本当に話の繋がり、発想に独創性がある。ニューロンの接続が、他人と全く違うというか。だからこその、芸術家なのだろうが……。


 それでも俺はこの男の、こういう部分にひどく興味をそそられるのだ。

 女に対してもそうであれば、彼もモテるのだろうが……世の中そううまくは行かないらしい。


 ちらりと覗き見たマダムも、楽しそうに話している。が……。

 彼女の場合は、話すことがスキルであり仕事でもある。どこまで本気かは、正直分からないのだ。


「昔はあった、かぁ」

 ちょっと、物思いに耽るマダム。


「………私の小学生の頃の思い出といえば、はんこ注射かしらね、うふふふ。あたし、その頃から身体大きかったから、服脱ぐのが嫌でね~、身体測定とか」

 小学校も高学年になると男女分けが始まる。異性を意識し始めたのは、丁度そのあたりだった気がする。

「あ~、ははは。あったなぁそういうの」


 自分の親の腕には、結構目立つ感じで注射の跡が残っていた。自分の頃は、もうほとんど目立たないものに置き換わっていた。そして、今ではそもそも行われていないらしい。


 ───その後も、子供の頃にあって今は無いものを、各々が想い出を交えて取り上げていた。


「逆に、今もって、何かありますかね?」


 音取が、次のお題を提示してきた。


「その聞き方だと、少し難しいな」


 今も普通に残っているなら、そもそも意識に上らないくらい日常に溶け込んでいるということだ。

 彼が聞いているのは、無くなっててもおかしくないくらいの隔世感がありながら、今も残っている、という類いのものだろう。


「二槽式洗濯機なんかは、どう?」

「あぁ、あれは一部じゃ、まだ需要あるんすよね」

 全自動と違って30分ずっと洗濯槽で回しておく、などという使い方ができるのが二層式の強みなのだ。土に汚れた野球のユニフォームとか、土木工事の作業服とか。


「街頭のティッシュ配り、とかかなぁ」

「最近はあんまり見ないけど、確かにまだあるわね」

 この辺は田舎だから、そもそもほとんど見ることがないが都市部ではまだ普通に行われているのかも知れない。


「──缶切りの必要な缶詰、とかどうです?」

 中で聞いていたらしい、厨房のあづみさんが出てきて、話を差し入れてきた。


「え、うそ!? 今時、そんなのあるか?」


 自分で問い返しておきながら、ちょっとおかしかった。缶切りなど、ここ10年ほど使ったことがない。なんならもっと、ずっと前からだ。

 無くても困らないくらい、既に日常からは消えているのに、缶切りそのものの存在は、自分の中で確固として残っているのだ。あれの存在が自分の中で消える日は、ちょっと想像が付かなかった。


 そうだ、音取はまさにこういうものを求めていたのだろう。彼女の答えに彼は微笑んで、大いに頷いていた。


「うちだと、海外の缶詰とかも使うから、まだまだ現役ね」

 マダムが、そう言って話を拾う。

「なるほど、そういう事情かぁ」


「──鉛筆でしょうかね。これは、少々事情が異なるとは思いますが」


 奥で仕事をしていた松原さんが出てきて、話に加わった。持っているクリップボードに挟まっているのは、今時にしては珍しく、鉛筆だった。


「あ、確かに。最近だと、健康診断の問診票書くときに使ったきりかな」

 あぁ、確かに。

 しかもそれだって、馬券売場に備え付けられてるような、樹脂製の柄に先端だけ鉛筆の芯が付いてる、いわゆるクリップペンシルだ。


「まともな鉛筆は、小学校で使ってそれっきりかもな……」

 中学からは、シャープペンシルだった。それだって、実用性というよりは周りで鉛筆使ってる奴がいないから、という同調圧力だった気がする。使いやすいという理由だけでは無かった気がするのだ。そして、今使っているのはほとんどがボールペンだった。


「鉛筆……! いいですねえ、今日一番のビビッドな回答ですよ。誰もが一度は使ったことがあるのに、忘れ去られている。そういうのが欲しかったんですよ♪」


 音取がそれを聞いて、ひどく嬉しそうな顔をしていた。何がそんなに嬉しいのかよく分からなかったが、琴線に触れるような回答だったらしい。


「ははは、喜んでいただければ、こちらも───」

 そして、続けて松原さん独特のユーモアが飛び出した。


「正解者には、何か景品は無いのですか?」


 それを聞いて、みんなが一斉に笑う。

「ははは」

「景品は……」

「そこまでは考えてないなぁ」


 そんな、急に言われてもなぁ。


 と思ったのだが、意外にも音取は、

「じゃあ、その鉛筆貸してください。あと、その紙も……それで描きますよ」

 そんなことを言っている。


「あら、似顔絵?」

 マダムが、興味を持って身を乗り出してきた。


 松原さんが差し出した紙と鉛筆を受け取ると、音取は一瞬の躊躇もなく鉛筆を走らせ始めた──。


 持ち方が独特で、チョークで黒板に描く時のような、人差し指を伸ばし気味に添えた、不思議な持ち方だった。


 しかも、松原さんの顔を一度も見ていない……?


 それで描けるのか……、そう思っていたが、ものの1分足らずで書き上げてしまった。

 かなりラフなタッチであったが、非常に少ない線でありながらリアルで……しかも、誰が見ても松原さんと分かるものだった。


 改めて、この男が芸術の達人だということを認識して、その上で驚愕する。



 初めて、この男が絵を描くところを見たが………

 本当に、人間業か………!?



「………どうでしょうか……? 似てますか……?」


 しかし、出来上がった絵のクオリティに反して描いた本人は異常に自信が無さそうだ。


「いや、似てるなんてもんじゃねぇぞ……! すげぇよ……あんた」

「そっくり……まるで生きてるみたいね……!!」

 マダムもびっくりのクオリティだ。


「……はじめて、絵で感動したわ」

 そう、ぽつりと言ったのは、厨房のあづみさんだった。

 彼が描き始めたのを見て、カウンターから駆け寄ってきていたのだが、テーブルに辿り着いた頃には既に出来上がっていたのだ。


「これ、相談受けてる時の松原さんですよね?」

 そして、あづみさんはそんな感想を漏らしていた。

「あ……本当! 表情に見覚えあるわ~」


 あづみさんは、そんなところまで感じ取ったようだ。言われてみれば、顎の下に描かれているのは、手だ。松原さんの癖で、熟考すると彼は顎に手を当てるのだ。


「……よかった。人物画って……全然自信が無くて……」

 しかし、描いた本人はまた、そんなことまで言っている。


「謙遜が過ぎると、かえって不遜だぞ。いや、こりゃすげぇよ……」

 俺は、そう言って真剣に褒め称えているつもりになっていた。


 ……だが、それは彼にとっては褒め言葉とは受け取れないらしい。

 人間、いろんな個性があるものだ。そして……、

 いろんな症状があるものだと───後に知ることになったのだった。


「───あたしも描いてもらおうかな……」


 あづみさんが、そんな事を言って実際に描いて貰うことになるのだが、それはまた別な話だ。

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