第7話 離別の先へ
「だって……初めての……子…だったんです」
涙も流せないほどの慟哭というのは、見ている方も苦しいものだ。
一時間程前に来店したらしい御婦人は、うちのマダムを相席に座らせて、ハンカチを口に当てたりしながら、切々と思いを語っている。
ちらりと盗み見た
営業スマイルや営業渋面も得意な彼女ではあるが、この感じは多分作りものではないだろう。
それほどに、眼の前の御婦人の悲しみは深く重いものであることが感じられた。
俺には流石に、そこまでの辛さというのは経験がない。
母親を亡くしたときにはそれなりに辛かったが、それでも病気だったため、離別の日までにはある程度心の準備も出来ていた。むしろ、死後何年も経ってからのほうが、後悔という名の辛さがじわりじわりと傷んで苦しかった気がする。
彼女の痛みが、せめて一過性のもので終わってくれればと、願わずにはいられなかった。
「でも……、まだそうと決まったわけじゃないんでしょう?」
「……気休めは、よしてください」
何と言って慰めればいいのやら。
他人の辛さというのは、言ってしまえば他人事だ。
本質的な意味で、共有はできないのだ。
我が子を失った苦しみは、同じ経験をした者なら、あるいは想像はつくだろう。
だが、それは似たような想像であって、本人の辛さとは別物だ。
失くなった子の父と母でさえ、子供と過ごした時間と体験はそれぞれで違うのだ。
できることと言えば、「これから」について話すことだろうか。
まだ見ぬ、未来への提言ならば、あるいはその人の心に届くかもしれない。
───過去は無理だ。
それは個人の体験価値なのだから。
まだ、その段階ではないのかもしれないが。
これからどうするか、それについてなら、そして自分がどうやって乗り越えたか、なら話す価値はあるのかもしれない。
俺は、厨房で働いている料理番……あづみさん──に声をかけてから新しい珈琲を入れて、テーブルで話す彼女たちへ持っていこうとする。
───からんからん!
その時、大きめのドアベルの音を立てて、男が駆け込んできた。入口で傘を振って雨粒を落としている。今は晴れているが、どうやら途中まで雨が降っていたようだ。
そして、せわしなく店内を見回した後、先程のご婦人を見つけて駆け寄ってくる。
「いた! 帰ってきたんだよ!! トラが!」
「えぇ……!? ほんとなの、あなた!?」
とら……?
ばあさんか?
いや、たぶん人の名前じゃないよな?
「あぁ……! 家の中から出てきたんだよ! てっきり外に出ていったんだとばかり思ってたのに!」
「まぁ! なんてことでしょう……あの子ったら」
そして、御婦人はオロオロとしながらも嬉しそうに、
「ごめんなさい。帰ってきたみたいで……あ、いえ、うちの中にいたみたいで」
おほほほ、と笑ってから財布から1万円札を取り出して、テーブルに置いた。
「お釣りは要りませんわ、ほんとうにごめんなさい」
そう、小声でマダムに声をかけて、主人と思しき男と連れ立ってそそくさと店を出ていった。
俺は一つため息をつく。
そして、入れたばかりの珈琲を、マダムのもとへ持っていく。ご婦人用に入れた珈琲は、せっかくだから俺が飲むことにしよう。
「……猫、なのかな?」
「えぇ……そうみたい」
なんだ……。
いや、たとえ猫であってもあの人たちにとってはかけがえのない家族だろう。
我が子であることにかわりはないのだ。
俺は、マダムの向かい側に腰を下ろす。
店員としてはあまりいい振る舞いではないだろうが、今来ている客は殆ど顔なじみばかりだ。さほど気にしていないだろう。
「……てっきり、人間のお子さんだとばかり」
「あ、途中から聞いてたのね?」
まあ、ね。
裏から戻ってきたところ、件の話し声が聞こえてきたのでそれとなく聞いていたのだが、主語が「あの子」だったため、判別がつかなかったのだ。
俺の差し出した珈琲を受け取りながら微笑んで、
「一緒に暮らしてれば、人間と同じくらい情が湧くものよ」
そう言ってコーヒーカップに唇を触れさせた。
それは、よく分かる。
今の俺なら。
「───それを考えると、よく手放したものだと思うわ……
「あぁ……。もう3年にもなるかな」
佐倉さんというのは、この街に住む店のお得意様で愛猫家であり愛犬家でもあった人だ。家で、3匹の猫と一匹の犬を飼っていたのをよく知っている。
数年前、その佐倉さんの息子さんが奥さんとその父親を連れて都市部に買った家を引き払い、故郷であるこの街に帰ってくることになったそうなのだ。
それ自体は別に、問題にもならなかった。
家も、少々リフォームして二世帯住宅化を終え、問題なく暮らしているらしいというのは聞いていた。
だが、その息子の奥さんという人が大変な潔癖症で、犬や猫は絶対に家では飼わないという人だったらしいのだ。
交渉の末、もともと外飼いだった犬の方だけは、なんとか残してもらえることになったそうなのだが………猫の方の処遇は聞いたことがないとマダムは言っていた。
「まさか、保健所じゃないとは思うんだけど、どうしたのかしらね?」
「………さあ」
そのうち、もともと住んでいた佐倉さんの奥さんが亡くなり、佐倉さん本人も病気になって、もう長くはないということで、諸々を近親者に頼んで入院……そのまま帰らぬ人になった。
残された犬が不憫だということで、同居している息子の奥さんの父親──まあ佐倉さんはじいちゃんと呼んでいたので、じいちゃんと呼ぶが……じいちゃんがリードを引いて外に散歩に連れ出すことにしたそうだ。
だが、そのじいちゃんは足が悪く、数十メートルしか散歩できないような有様だったため、むしろ犬に引っ張られて歩いていると、もっぱらの評判だったのだ。
ところが、それを何日も何ヶ月も続けていると、だんだん足腰が良くなってきて、今ではこの店の周りまで散歩に来ている姿をよく見かけるほどになったのだ。
「───あの犬のお陰で、おじいちゃん脚が良くなったのよね~」
「あぁ……。あの犬、大功労賞ものだよなぁ……」
なにかの役に立つ、それだけが命の価値ではないだろうが、そういうこともあるのが人の世の面白さだ。
「……ところで
「ああ、タバコじゃないですよ。ちょっと、物置の片付けを」
そういって、適当にはぐらかす。
からんからん♪
「いらっしゃませ、どうぞお席へ」
マダムが、新たに入ってきた客をもてなすために、席を立って行く。
それを見届けたあと、再び俺は店の裏へと、こっそり抜け出す。
裏口を通って、店の倉庫の方へ歩いていく。
………俺の足音を聞きつけて、物陰から3つの影が飛び出す。
水溜まりを上手に飛び越えて、足元に来てじゃれつく。
「にゃー、にゃ~ん」
「ははは、まだ足りなかったのか……。どれ、もうちょい食うか?」
俺は、物置の隅に仕舞っておいたキャットフードを取り出して、目の前の猫の皿に盛り付けてやる。
………自分の病気を、他人事のように話していたこの猫たちの主……生前の佐倉さんの顔を思い出す。
────永峰くん、この子たちの面倒見てやってくれないか? 多分俺、もう戻ってこれないと思うからさぁ………
息子夫婦の方は、心配要らないと思うけど……この子達は、行くところが無いんだ、頼むよ────
そう言って、この猫を連れてきた時……。俺は、ペットが家族ということを、まだ理解できていなかった。その時まで俺は、一度も動物を飼ったことがなかったから。
だが、今は違う。
こいつらが死んでしまったら、たぶん俺はとても悲しいだろう。
きっと、胸に穴が空いたような喪失感を覚えると思う。
だが、その悲しみに向き合う覚悟を決める時間は、まだあるだろう。
それまでには、自分の気持ちの整理を付けておかないとな。
あるいは、あまりに寂しくてまた別な猫を飼いたくなるのだろうか?
なぁ?
「にゃ~ん」
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