第12話 戸越しのハナシ


 次の日、俺は昼から喫茶『スワローテイル』のシフトに入った。


 暦は四月から五月に変わって世間は今ゴールデンウィーク真っ只中だった。うちの店にも珍しく常連以外の客が増えて、汐里ちゃんとばたばたしながらも注文をさばいていく。相変わらずうちの珈琲は人気のようで一見の客も一口呑むと顔色を変えていた。


 そして客足のピークを越えた頃、ホールは汐里ちゃんに任せ、俺は積み上がった食器類を洗っていた。


「はぁ⁉ なにしてんだよ⁉」


 いくらか余裕が生まれ、注文も一旦さばき切った揚羽さんは、厨房の影でスマホを耳に当てながら店に響かないくらいの怒声をあげていた。


「いやそうじゃないだろ⁉」


 脱いだ三角巾も手で握り潰してしまっている。


「なんか荒れてますね?」


 最後の注文の品を届け終わった汐里ちゃんがカウンターの裏に入ってくるや、揚羽さんを見つけて言う。


「あの人がやかましいのはいつものことだよ」


「ですねー。わたし店の前掃除してきます」


「ああ、お願い」


「……そうだ、あの、如月先輩」


 なにかを思い出した様子の汐里ちゃんはふと上目遣いで見上げてきた。かと思えばゆらゆらと視線を泳がせて妙にもじもじし始める。


「先輩って、たしか就職決まったんですよね?」


「うん、そうだよ」


「前は夏頃に就職が決まるだろうから、その頃にアルバイトも辞めるって言ってましたけど」


「そうだね。思ったより早く決まっちゃったから、たぶんそろそろ辞めると思うよ」


「ですよねぇ……先輩がいないと、なんか寂しいです」


「バタバタして悪いね」


「いえいえ。……それで先輩はこの後、お暇はあるんでしょうか?」


「えっ? 俺?」


「はい! お別れ会じゃないですけど、その、どこかでお夕飯でもご一緒できればなぁー、と思いまして」


 きゃあ、言っちゃった、と汐里ちゃんが頬に手を当てて赤くなる。


「……」


 俺は食器を洗う手を止めて黙り込んだ。


 暇ならある。今日は休日だし大学に用事もない。なによりお別れ会なんて殊勝なことを言ってくれる可愛い後輩の気持ちにはぜひとも応えてあげたいところだ。


 けれど、こんなときでも俺の頭に浮かぶのは蓬田さんの顔だった。今朝起きたときも、ここへ来る道中も、店内を駆け回っているときでさえ俺の頭のなかにはいつでも蓬田さんの存在があった。蓬田さんの存在が引っ掛かっていた。


 昨晩の蓬田さんの声が鼓膜にこびりついて消えないのだ。妙な胸騒ぎが収まらない。


「……っ」


 不意に——蓬田さんの包帯の巻かれた手首が脳裏をよぎって。


 俺はやっぱり、居ても立っても居られなくなった。


「ごめん。この後は寄るところがあってさ」


「そ、そうですか、そうですよね……無理言ってすみませんでした」


 汐里ちゃんが至極残念そうな顔で項垂れる。それを見た俺は途端に申し訳なさが膨れ上がって「また時間あるときに行こうか」と口にしていた。


 汐里ちゃんは花が咲くように笑ってくれた。





 **






 バイトを終えた俺は店を出てすぐ竜野家へと向かった。


 夕暮れ時、太陽が西の空に沈んでいく。頭上の空はいくらか重たい雲が 割を占めていて、青みがかった空気が夜の気配を連れてくる。陰と陽のちょうど中間を思わせるこの時間帯は綺麗な景色とは裏腹にどこか不気味だった。


 胸騒ぎも収まらぬまま、逸る足取りに任せて竜野家まで辿り着くと、すぐ門扉をくぐっていつものようにインターホンを押さず家に入ろうとする。


 しかしすんでのところで声が聞こえた。


「お兄さん、お兄さん」


 俺を呼ぶ声は庭のほうから。振り向くと、縁側から身を乗り出すようにして手招きする牧子さんの姿があった。俺はびっくりして牧子さんのもとへ歩いていく。


「どうしたんですか? 牧子さん?」


「お兄さん、りっちゃんに会いに来たんやろ? 悪いんやけど、もうちょっと待っててくれへんか? 今お客さんが来たところやねん」


「客って……もしかして蓬田さんが出てるんですか?」


 牧子さんが頷き、俺は素直に驚いた。あの蓬田さんに会いにわざわざ家まで訪ねてくるような人がまさか俺以外にいるなんて。一体だれだろうか?


「りっちゃんの父親やねん」


「えっ……?」


 父親って、まさか離婚して行方知れずと言っていたあの父親か? 俺がそう訊ねると、牧子さんはゆっくり頭を横に振った。


「そっちやない。義理のほうや」


「えっ⁉ 義理って、揚羽さんの再婚相手のことですか⁉」


「しぃー‼ 声が大きいてお兄さん!」


 ぐぃ、と無理やり縁側に座らされる。


「なんで蓬田さんの義理の父親がここに……」


「そら、りっちゃんを引き取りに来たんに決まってるやろ」


 え……? 引き取る……?


「なんやお兄さん、ほんなまぬけな顔して……まさか揚羽たちがあの子をずっとあのままにしとくとか思てたんか?」


「それは……でも、この前の揚羽さんは消極的な感じでしたよね? 今日も来てないし」


「あの子は意気地がないからな。どうしようもあらへん。せやから旦那のほうが説得しに、こうして時々出張ってきてんねん」


 と言う牧子さんはなんだか苦い顔をしていた。


 俺は心のなかで牧子さんの言葉を反芻する。


 蓬田さんが引き取られる……蓬田さんが、引き取られる……。


「牧子さん、これ……押しかけちゃダメです、よね?」


「……お兄さん」


 俺が下手に笑ってみせると、牧子さんはそんな俺をじっと見つめた。やがてぽりぽり頭を掻くと、大仰にため息をつく。


「はぁ……隣の部屋まで連れてくから、それで堪忍したって」


 すみません、と俺は頭を下げる。






 廊下を回ってとある暗い部屋に辿り着くと、隣の部屋からはたしかに話し声が聞こえた。そーっと音を立てないよう動いて、あっちとこっちを一枚で隔てる戸のもとへ近づく。


「ええか? 絶対に静かにしとくんやで? 滅多なことは考えたらあかん。旦那さんは難しい人やさかい」


「……はい」


 牧子さんはさんざん釘を刺してから部屋を出て行った。


 この人がそこまで言う人って、一体どんな人なんだ?


 少し引っかかりながらも俺は戸の前で腰を下ろす。顔を近づけ聞き耳を立てると、戸越しでくぐもってはいるが、ふたりの話し声が聞こえてきた。


『その髪……相変わらず染めているんだね? たしか、前に会ったときにやめなさいと言った気がするんだけどね?』


『は、はい』


 緊張で震えている。蓬田さんの声だ。


『はい、じゃわからないよ? こういうときはちゃんと説明しないと』


『す、すみません』


『謝ってほしいわけじゃないんだけどね』


 対する声は妙に平坦で冷たい声だった。こっちが揚羽さんの再婚相手だという男の声なのだろうか。義理とはいえ自分の娘に対する態度のようには思えないが。


 はぁ、と深いため息が一つ。


『……もう何度も来たからわかってると思うけど、そろそろキミを引き取ろうと思っているよ。その話をするために今日はこうして機会をもらったんだ』


 話の目的は牧子さんの言っていた通りだった。蓬田さんが引き取られるかもしれない。みたび心のなかで呟き、俺は静かに息を呑む。


『あ、あいつは、なんて言ってるの』


『…………あいつ? あいつとはまさか、揚羽のことを言っているのかい?』


『っ……‼』


 平坦な声にかすかに怒気が混じる。蓬田さんが息を呑んだのがわかった。


『まっ、ママは、なんて』


『……揚羽は……もう少し様子を見たいと言っているよ。正直呑気だとは思うが、悠然と構えるのは彼女の美徳だ。強制はできない。したがって、一応キミの義理の父親という立場である僕がこうして代わりに出しゃばらせてもらったわけだ』


『……』


『まあ、勝手な行動をするなと、揚羽にはさっき怒られたところだけどね』


 不意にさっきまでの揚羽さんを思い出す。厨房の陰でスマホを耳に当てて怒鳴っていた揚羽さん。アレはそういうことだったのか。


『それでも彼女の代わりにできることがあるなら、僕はやってあげたいのさ。そうしないとパートナーである意味がない。キミもそう思うだろう?』


『知らない、そんなの……』


『ふっ、そうかい。まあキミに殊勝な態度は期待していないよ。ただ、僕の言うことにしたがってくれればそれでいい。自分で決めるのは苦手だろう? キミは』


 皮肉な言い回しをされても、蓬田さんはなにも言い返さない。


 らしくないぞ、蓬田さん……。


 こんなふうにただ黙って相手の話を聞くしかできないなんて、蓬田さんのイメージじゃなかった。もしかしたらこの義理の父親に苦手意識でもあるのかもしれない。会話の雰囲気も、ふたりの距離感も、まるで家族のものじゃない。


『揚羽は今、僕の家で暮らしている。だから引き取ると言っても、うちに上がり込むのではキミもいろいろと気まずいだろう。揚羽もキミがいると気にしてしまうしね。ゆえに、折衷案として今回は別の方向での解決策を用意させてもらった』


 男は一貫してそっけない態度で話を進めていく。まるでプレゼンテーションでもするような口調で、やがて言った。


『うちの近くにマンションがある。その一室を、キミにプレゼントしよう』


『えっ……?』


「え……」


 思わぬ提案だった。蓬田さんだけじゃなく俺までも驚きの声を漏らしてしまう。


『家賃に関しては僕が払おう。その代わりキミには即刻この家を出て、そのマンションで一人暮らしをしてもらいたい。心配しなくともうちとは近いから、会いたくなったら母親にもすぐも会えるだろう』


『ひ、一人暮らしって、なんでそんな急に』


『キミの現状を鑑みて、なにが最も必要なのか考えた結果だよ』


 男の口調は淀みなかった。


『キミが変われない一番の理由はね、この家だよ』


『え……』


『キミに辛いことがあったのはわかる。だから避難場所として、逃げ場としてキミはここを選んだんだろう。ここにはキミをおびやかすものはないからね。なにもしなくても毎日温かいご飯が出るし風呂が沸いている、きっと居心地がいいだろう。現実に向き合う気力すら、手放してしまうほどに』


『うぅ……』


『キミはね、この家に守られているんだよ、だから、何年経っても変われないんだよ』


 だからこそ変わるための環境を用意するのだと男は言う。


『しかしただ場所を提供するだけでは無責任というものだろう。ちゃんと就職の斡旋もしようじゃないか。キミが一人で生きていくために、ね……心配しなくていい。その辺りの伝手は多いんだ、僕は』


 男はけっこうなお偉方なのかもしれない。さっきからの話し方からしても冷静な態度が染みついたビジネスマンっぽい印象が強い。


 ……というか。

 なんかこの声、聞き覚えがある、ような……?


 いやいや、と俺はすぐに頭を振った。こんなに冷たくてそっけない声の持ち主に心当たりなんてない。ただの勘違いだろう。


『じゃあ説明は済ませたから、これで話を進めてもいいね?』


『ま、待って、あたしは……』


『なんだい? なにか疑問でもあったかい? それとも……一人暮らしなんて嫌だ、とでも言うつもりなのかい?』


『ち、違う。だ、だって』


『いや、だって、違う……キミはそればっかりだね』


 そこで大仰なため息が聞こえる。蓬田さんがびくりと怯えた気がした。


『まるで現実が見えていないようだから言っておこうか。今のキミはね、社会的に見てかなり危ういんだよ。自分からはけっして動かず周りに甘えるばかりで、ただ家に引きこもり現実から逃げ続け、気づけば五年を無駄に過ごし、最終学歴は中卒だ』


『そ、そうだけど、あっ、あたしは、無駄なんて』


『じゃあこの五年でキミはなにかを成し遂げたのかい? なにかをやろうと努力して、少しでも社会に貢献したのかい?』


『っっ……‼』


『してないよね? キミはただ傷つくことを恐れて殻に閉じこもり、自分を育ててくれた母親にただ迷惑をかけ続け、そんなみっともない自分から目を逸らして逃げ続けたんだ。そうだろう? 違うなら違うと言ってみたらどうだい?』


『あっ……あたし、は……』


 蓬田さんの声がかすれて、小さくなって、だんだん聞こえなくなる。


 だんだん蓬田さんが追い詰められているのがわかって俺はその場で歯噛みした。


 できることならこの戸を開け放ってやりたかった。なかに飛んで入って、邪魔して、蓬田さんの助けになってやりたい。


 だがこれは他人の家の話し合いだ。外野が口を出す権利はない。口を出したところで俺なんかになにができるわけでもないし、そもそも蓬田さんがそれを望んでいるかわからない。


 こんなに近くにいるのに、なにもしてやれない。


 歯痒くてしかたなかった。


 そのとき部屋で大きな物音がした。


『待ちなさい!』


 続けざまに男の焦った声。


 察するにどうやら蓬田さんが我慢できずに立ち上がったらしい。自分の部屋に逃げ込もうとしているのか、一心不乱な足音がやがて近づいてくる。


 ……ん? 近づいてくる?


「まずっ」


 と、すぐに察して身を隠そうとした俺だが、時すでに遅し、慌てて立ち上がろうとした俺の目の前で、勢いよく戸が開かれた。


「うっ……⁉」


 誰かが立っているなんて思ってもみなかったのだろう、蓬田さんは驚きの声を上げながら勢いそのまま俺の胸に飛び込んできた。俺は蓬田さんを支えながらふたりで畳に倒れ込む。


「いっ、てぇ……‼」


「ご、ごめんなさい……って、如月くん? なんで……?」


「ああ、いや……」


 目を丸くする蓬田さんに、俺はどう言い訳したものかと視線をさまよわせる。だがそのとき後ろから「如月くん……?」と男の声がして、蓬田さんはハッとしたようだった。すぐ立ち上がって、俺をその場に残して脱兎のごとく走り去っていく。


 入れ替わりに牧子さんが部屋に現れ、俺を見て「あちゃー」と声を上げていた。


 俺はとにかく立ち上がって、ローテーブルに座っているスーツ姿の男に向き直る。


「し、失礼しました。あの、俺は、如月御雪といって、蓬田さんの友達みたいなもんで……‼ その、実はっ、今の話をずっと、こっちで聞いていて……‼」


 しどろもどろになりながら言葉を探す。


 だが、すぐにそれどころじゃなくなった。


「……如月くん、かい?」


「は、はい。そうです。ほんとにすみませ」


「違う違う。僕だよ。ほら」


「……え?」


 うながされ、改めて俺は男の顔をまじまじ見る。


 そして——。


「えっ……⁉」


 驚愕の声を発した。

 だって、目の前の男は……。


「すっ、菅原、さん……?」


「ああ。そうだよ」


 皺一つない黒のスーツ、縁なしの眼鏡、そして……とても気安い口調。


「昨日ぶりだね、如月くん」


 菅原幹彦は俺を見上げて穏やかな表情で微笑んだ。



 

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