第10話 愛とはなんぞや


 数日後の夕方頃。


「お、来たね」


 くだんの喫茶店に入ると、カウンター席にスーツ姿の菅原さんが座っていた。


 来店した俺に気づき、愛想よく手を振ってくれる。俺は会釈をかえすと、店員さんと菅原さんのふたりに促されるまま菅原さんの隣に座った。


「もしかして、待ってたんですか?」


「ん? いやまさか。ここで珈琲を堪能していたら、偶然君が訪れただけだよ。前にも言っただろう? 僕は間が良い男なんだ」


 といってはにかむ。


 俺は苦笑いした。絶対に忙しい人のはずなのに、こうしてたまたま時間が合うのだから、本人の言う通り神がかったタイミングの良さだ。


「まあ、今はそんなことより、言うべきことがあるね」


 菅原さんは珈琲を一口呑むと、改まって僕に向き直る。


「如月くん、試験合格、おめでとう」


「あ、ありがとうございます!」


 就職内定の報せがあったのは、つい数日前のことだった。


 マンションのポストに届けられた一枚の用紙は、以前面接をおこなった菅原さんが勤める会社からの通知書だった。緊張しながら読んだ文面にはたしかに『採用面接試験の合格をお知らせいたします』の一文が記されていた。何度も確認したから間違いない。


 第一志望の会社の面接試験に、俺は合格することができたのだ。


「いやぁ、喜ばしいことだね。如月くんのような優秀な者がうちに来てくれるなんて」


「優秀だなんて、そんな」


「僕はもちろん、ほかの社員からも君は好印象だったよ。真面目そうで、はきはきしていて、なにより気概を感じる。素晴らしい」


 菅原さんは「あっ、言っておくけど、僕が贔屓したわけじゃないからね?」と冗談めかした表情を浮かべてみせる。それにつられて俺も笑った。


「はい。でも、ありがとうございます」


「いやいや、君とはいろんなところで気が合いそうだし、上手くやっていけると確信もしているからね。期待しているよ?」


「は、はい! 頑張ります」


 改めて気合を入れる俺だった。


 憧れの『スーツの似合う大人』になるためにも、お手本である菅原さんのもとで働けることは俺にとって最高の環境と言える。


「さあ、堅苦しい話はさっさと終わらせて、趣味の話でもしよう」


 湯気立つ珈琲カップを持ち上げて菅原さんが言った。


 それからは本当に珈琲談義の時間だった。菅原さんは想像以上の珈琲マニアで、酸味のバランスや至高の香りとはなんなのか熱く語り出した。なんでも自宅には数十種類の珈琲豆が常備してあり、毎朝自らの手でドリップしては最高の味わいを探求しているのだとか。もちろん会社にも私物のドリッパーを用意して、空いた時間に至福の時間を満喫しているらしい。


「時々社員の子にやってもらっているが、まだ上手くできないみたいでね。結局自分で淹れるのが一番という結論になった」


 珈琲語りをしているときの菅原さんは普段のクールさとはまた違った意味でかっこいい大人だった。落ち着いた雰囲気はそのまま、静かに熱のこもった口調で語る様子は分別を理解したうえで息抜きを満喫する、まさに充実した大人といった感じで、俺はなんだか憧れた。


「ただ妻の淹れる珈琲だけは格別なんだ。あれは僕には出せない良さがある」


「奥様も珈琲好きなんですか?」


「そうさ。彼女は喫茶店の経営をしていてね、僕が彼女に出会ったのも、客としてその店を訪れたのがきっかけだったんだ。会社からは遠いから、今は全然行けないんだけどね」


「へぇ……」


 その代わりに家では時々淹れてもらっているよ、と付け足される。


 俺の頭のなかでは『喫茶店の経営をしている女性』という単語がふわふわと漂っていた。


 ……いやいや。

 ないない。ありえない。


「急に黙ってどうしたんだい?」


「いえ、馬鹿な考えがよぎっただけです。気にしないでください」


「ふむ」


「世間は意外と狭いと最近思い知らされることがあったんで。それが理由かと」


 頭を振って邪念を振り払った。


「参考までに、どんなことがあったか、聞いてもいいかい?」


「え? いやそんな、菅原さんに聞いてもらうような話でも」


「会話というのはキャッチボールをしているだけで意味があるものだよ。今は僕がボールを投げてばかりで据わりが悪いし、僕を助けるという意味でも聞かせてくれないかな」


 そんなふうに言われては断ることはできない。


 俺は名前を伏せて蓬田さんとのことを語った。高校生のときに気まずい別れ方をしたクラスメイトの少女と最近再会した、という内容を微妙に変えたエピソードにして。


「ほぉ、それはまたドラマチックな話だね」


「いえ、それが……その女の子が実は、あの頃からずっと家に引きこもってた、っていう、どうしようもない話で」


「んん?」


 菅原さんが眼鏡の奥で目を丸くさせる。まさかの展開に驚いたか、もしくはなにかべつの驚きがあったような反応だったが、俺はとくに気にせず続けた。


 ひょんなことから繋がりができて、なんだか見捨てることができなくて、気づけば外堀を埋められていて、なぜかその子の面倒を見ることにいつのまにかなってしまっていて……。


 そんなような個人的な話を、菅原さんはただ黙って聞いてくれていたが、やがて神妙な顔つきになって俺を見据えた。


「要するに、君はその子に惚れているわけだね?」


「へ?」


 あまりに真っすぐな眼差しで言われたものだから、一反応が遅れてしまった。


「やっ、ち、違いますよ! 俺はそういうんじゃ……!」


「そうかな? たかが元クラスメイトというだけで、そこまで親身に付き合ってやる必要はないだろう。君がその子に特別な感情を抱いていなければ」


「い、いや! いやいや!」


 たしかに特別に見ている側面はあるかもしれない。むかしから蓬田さんは変な子で、いつでも目立っていたから、ほかの子と違って見えていたのはある。あるが……。


「違います。断じてそういう……」


「じゃあその子は君から見てどうだい? 可愛いかい?」


「か、かわ……」


 反射的に蓬田さんの容姿を思い浮かべる。


 背が低くて、というか全体的にちっこくて、そのくせ出るところは出ていて引っ込むところは引っ込んでいて、いつだって俺を見上げていて、表情がころころ変わって、それが見ていて飽きなくて……。


「可愛いんだね? 魅力的なんだね?」


「たっ……たしかに、小動物的な可愛さはあるかもしれない、こともない、こともないかもしれませんが」


「平静を欠いているのがなによりの証拠だね」


「お、俺は……!」


「如月くん、前に僕が言ったことは覚えているかい? 愛についてさ」


 脈絡のない問いに、俺は一瞬言葉を詰まらせた。


「お、覚えてます。詳しくは話していただけませんでしたけど……」


「急用が入ってしまったからね。今日はちゃんと話そう。と、その前に、君はあのとき僕のことを『カッコいい大人』と評していたね?」


「はい……菅原さんは、俺にとって理想ですから」


「そう言われるのはとても嬉しいよ。けれど、だれもが最初から優秀だったわけじゃない。かく言う僕にも、うだつの上がらない時代はあった」


「菅原さんに、ですか?」


「もちろん。なにも知らない平社員だったよ。自分に自信なんかなくて、意欲とは程遠い人間だった。だが、今の妻に出会って世界が変わったんだ」


 菅原さんは遠い目をした。


「大切なものができたことで自信がつき、やるべきことが明確になった。それからはなにもかもが目まぐるしかった。足早に時間が過ぎ、気づけば人事部長に抜擢されていた」


「おぉ……」


「愛によってすべてが変わったんだ」


 含蓄のある語りに、俺は妙に圧倒される。


「愛は人生において欠かせないものだ。ゆえに、しっかりと自覚しなければならない。自分の胸に芽生えた愛の存在を、無視してはいけないんだよ。如月くん」


「うぅ……」


 模範とすべき理想の大人たる菅原さんからの助言に、俺はついに反論する意志を絶たれてしまった。圧倒的なまでの説得力に打ちのめされてしまった。


 本当は俺、蓬田さんのことが好きなだけなのか?


 もう一度蓬田さんのことを思い出してみる。


 再会して早々、無数の罠にはめられて頭を粉まみれにされたこと。

 その後、水鉄砲を浴びせられてびしょびしょにされたこと。

 一年間、同じ教室で過ごしたのに顔すら覚えられていなかったこと。


 …………ナイな。


「すみません、やっぱりただの勘違いだと思います」


「そうか。まぁ、時間はたくさんあるから、じっくり考えてみるといい」


 いくら考えても結論は同じだと思うが……。


「とにかく肝に銘じることだよ。もし君の胸に『愛』が芽生えたときは、しっかりとそれを自覚し、大切にすることをね」


「はぁ」


「そして、それを守る意志を持つことを」


 きらり、と菅原さんの眼鏡のレンズが怪しく光った。


「守る意志、ですか?」


「ああ。愛する者の安寧をおびやかす者、『愛』を妨げようとする者は、絶対に許してはいけない。そのときは全力で排除するべきだ。……絶対に、ね?」


 さっきまでとは違う、このときの菅原さんにはただ言い知れない迫力があって、俺は言葉を詰まらせた。


 けれどそれも一瞬のことで、気がつくといつもの穏やかな表情に戻っていた。


「ぬるくなってしまったね。もう一杯頼もうか」



 

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