第9話 キミに近づくための
その日は大学の講義が昼前で終わり、その足で俺は喫茶『スワローテイル』に向かった。
路地の奥まったところ、通りから身を隠すようにたたずむ洋風の店は今日も閑古鳥が鳴いているようだ。休日と言えど真昼からここに来る客は少ない。常連客は大体三時くらいから足を運び、珈琲とともに優雅なひと時を楽しんでは去っていく。
だが今日ばかりは珍しい客の姿があった。
「あれって……」
店に入るとカウンター席で揚羽さんがお年寄りの女性と話し込んでいる。それも店員と客の雰囲気ではなく、もっと親しい間柄でないと生まれない距離感だった。「あっ、先輩、おつかれさまです」ぺこりと頭を下げる汐里ちゃんに俺はひそひそと話しかけた。
「おつかれさま。ねぇ、あれって牧子さんだよね?」
「はい。ずっと前から話し込んでますね」
「店長になにか用事? 珍しいよね、ここに来るの」
「そんなことありませんよ。牧子さん、けっこう来てくれますよ」
「えっ……?」
汐里ちゃんの話によると、最近になって頻繁に足を運んできているらしい。しかも偶然にも俺が蓬田さんと会っている時間帯によく来ているのだとか。竜野家を訪ねるとき、牧子さんは不在なことが多いから気になっていたのだが、まさか入れ違いになっていたなんて。
「あ、先輩。呼ばれていますよ」
促されて振り向けば、にっこり笑顔の牧子さんが俺をひょいひょいと手招きしている。反して揚羽さんは苦々しい顔つきだ。なんだろうか。
「こんにちは、牧子さん」
「お兄さん、りっちゃんのこと養う気ない?」
「へ?」
出し抜けに言われたのは思いもよらぬ言葉だった。俺はマヌケな顔で固まる。「はぁ……⁉」となぜか後ろで汐里ちゃんが汚い声を上げていた。
「や、やしなう……?」
「なに言ってんだよ、婆さん」
「揚羽さん?」
「悪い如月、今のはババアジョークだ。気にする必要はねえ」
牧子さんが「だれがババアや」と言って珈琲を吞む。
俺は困惑しながらその場に立ち尽くした。
「す、すみません、話が読めないんですけど、一体なんの話をしてたんですか?」
「りっちゃんの将来についてや」
蓬田さんの、将来……。
「あの子とよう会ってくれとるお兄さんやったらわかるやろ? りっちゃんが今のままじゃあかんことぐらい」
「……まあ」
高校を中退してからおよそ五年間、家から一歩も出ずただ引き篭もっている今の蓬田さんは正直かなり危うい。身内なら見過ごすことはできないだろう。
「ウチももう老い先短い命や。いついなくなるかわからへん。せやから、さっさと肉親のもとで暮らせるようにせなあかん……って、もう何年も言うとるんやけどなぁ」
「……」
揚羽さんが気まずそうに視線を逸らす。
「どうしてそうしないんですか、揚羽さん」
「……しようとしたさ。何度もな。だがなにを言ってもあいつは聞く耳持たねえ。あたしのことを『裏切り者』だって言って、頑なに拒みやがる」
「『裏切り者』、ですか……」
「ああ。今の旦那と再婚してから、あいつはあたしのことをそう呼んでんだ」
「さんざん娘のりっちゃんに辛い思いさせといて、結局離婚して、そのあとすぐにほかの男と再婚したんや。恨まれるのもあたりまえや」
牧子さんにそう言われ、揚羽さんはぽりぽりと頭を掻いた。
「反省してるよ。あたしはあいつを振り回しすぎた。……だから困ってんじゃねえか」
「なるほど。つまり蓬田さんがやっと手に入れた安住の地から、また無理やり引き剥がしてでも、一緒に暮らそうとするなんて虫が良すぎるのではないか、と?」
「漆原……おまえはもう少しオブラートに包め」
横から入ってきていきなり核心を突く汐里ちゃんに、揚羽さんはとてもげんなりした顔になっていた。それでも否定しないのは図星だからだろう。
「この馬鹿娘がそない殊勝なこと考えてるわけないやろ。単に一人娘に暴言吐かれてしょげてるだけや。そんでまた拒まれるん怖がってんねやろ」
「ん、んなことは……」
またしても否定の言葉は出てこなかった。
「娘のことで臆病になってたら母親失格やで、あんた」
「わ、わかってる。わかってるがな……」
こういう会話を何度も繰り返してきたのだろうか、ふたりは共にため息をついて、そのまま黙してしまう。これ以上の答えが出ない、それは諦めの沈黙だった。
「あの」
気づくと俺は口を挟んでいた。
「つかぬことを聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「揚羽さんは、蓬田さんの手首の包帯のこと、知ってますか?」
「むっ……」
そのとき、揚羽さんは今までで一番揺さぶられた反応をした。
「知ってますよね? 母親ですからね?」
「……あ、あぁ」
唐突にその話をされるとは思わなかったのだろう、揚羽さんの表情は明らかにぎこちなかった。
「あいつが高一のときに、急にな……」
「話を聞いてる限り、ちょうど揚羽さんが前の旦那さんと上手くいってないときですよね。そしてたぶん、蓬田さんが一番辛い時期でもあった」
「わかってる。あたしだって驚いたんだ。すぐにどうしたんだって、病院でも行くかって訊いたよ。そしたらすごい剣幕で拒まれて、結局なにがあったのかも教えてもらえなかったんだ」
「もしかして……包帯の下、確認してないんですか?」
「うっ、まあ……」
「一度も?」
「見ようとしたら怒るんだよ、あいつ」
これは……駄目だ。
俺は強く拳を握った。
「怒るとか、怒られるとか、そういうんじゃないだろ。あんなの、なんでもいいからなんとかしなきゃ駄目だろ」
「如月?」
「先輩?」
「なんで無視するんだよ。見て見ぬ振りするんだよ。五年もだぞ……? そんなの、今生きてるのだって、奇跡じゃないか」
みんなが俺を見ていた。揚羽さんは困惑した表情で、汐里ちゃんは不安そうな顔で、牧子さんは神妙な顔つきで、そして少ない常連客たちも「なんだなんだ」と様子を窺っている。
「落ち着けって。りすかだぞ? あんな包帯、どうせ大したもんじゃないって」
「わかりました」
「そ、そうか」
「このまま揚羽さんに任せるのは間違いだってことが、わかりました」
うぇ? と揚羽さんが間の抜けた顔で固まった。
「俺がなんとかします。いえ、してみせます」
「よう言うた! お兄さん!」
牧子さんが、パンッ、と手を打つ。「ちょっ、先輩⁉」汐里ちゃんも声を上げる。
「その言葉を待ってたんや。そう、お兄さんなら言うてくれると信じとった。ほんなら、あの子のことはお兄さんに一任してええんやな?」
「はい、任せてください!」
「おう! しっかりやりや!」
バシッ、と背中を叩かれ、俺は期待に応えるように大きく頷く。
俺が自分の発言を後悔することになったのは、それから数時間後のことだった。
**
——その日の夜。
俺は自分の家の廊下で、がっくりと項垂れていた。
「どうしてこうなった」
家に帰ってしばらく経ち、だんだんと頭が冷えてくるにつれて冷静な思考を取り戻し、今一度先ほどの思い出してみた結果、今の言葉が口から漏れていたのだ。
なんでもなにも勢い任せに喋った自分が原因に決まっているのだが、改めて思い出してもあんなふうに大見得を切った自分がいまだに信じられない。頭に血が上っていたのだろうが、どう考えてもあのときの自分は冷静じゃなかった。
「面倒なことになったな……」
元々はアルバイトの説得をするだけの軽い役目だったのに。
まるでだれかの術中にハマるかのようにいつのまにか蓬田さんの事情に踏み込んでいて、気づけばとても大きなものを背負い込んでしまっていた。
「まぁ、言ったからには仕方ないな」
腹をくくろう。俺は立ち上がる。
そして俺はポケットからスマホを取り出した。これから家に向かう頻度も多くなるだろうから、とりあえず蓬田さんに連絡しておこうという算段だった。連絡先はあらかじめ交換してある。まだ一度も連絡を取り合ったことはないから初めての通話だが。
「お?」
突然画面が強制的に移り変わった。表示されたのは『蓬田さん』の名前。
まさか、このタイミングであっちからかかってくるなんてな。
俺は少し驚きながらも通話に出た。
「はい」
「や、夜分遅くに失礼しますッッ‼ た、たちゅのと申す者ですッ‼ きっ、きさら、如月御雪くんはおっおおおぉりますでしょうかッッッ⁉」
開口一番上擦った声で叫ばれた。これはたぶん家電とスマホを勘違いしてるな……。
「落ち着いてくれ。これ俺のスマホだから」
「そ、そうよねっ。うん。わ、わかってたわ」
「絶対わかってなかっただろ」
「とっ、友達に電話かけるなんて初めてだから、緊張しちゃうのよ!」
「なんで悲しいこと言うんだ。やめてくれ」
「そ、そういえば御雪くんって、なんか女の子みたいな名前よねッ⁉」
「コンプレックス突くのもやめて」
とりあえず蓬田さんが落ち着いて話ができるまで待ってあげてから、俺は急に通話をかけてきた用件を訊ねてみた。
「べ、べつにっ、用件がないと通話しちゃダメなんてルールは、な、ないわよねっ?」
「え? あ、あー、まあそうだね。たしかにそうだけど……でも、そういうのって付き合いが深い仲とか、恋人がやるようなことじゃないか?」
「こっ……⁉ い、いきなりなに言うのよ⁉ せっ、セクハラよ‼」
「なんでだよ」
解せない……。
「じゃあなんの用なんだ?」
「い、いえ……その……」
もごもごと蓬田さんが急に口籠る。なぜだろう、面と向かって話しているわけでもないのに、俺にはあっちこっちに視線を泳がせる蓬田さんの姿が容易に想像できた。
「きッ……‼ 如月君はッ‼ FPSはやってるっ、かしらっ?」
「なんだその口調…………まぁ、たしなむ程度にはやってるよ」
FPSとは基本的にオンラインプレイ専用の一人称視点サバイバルゲームのことだ。大体シューティング要素のあるゲームを指して言うが、昨今はチームプレイが主体のゲームが席巻していて、俺はよく大学の友達と一緒にチームを組んでやっていた。
「そ、そう。……き、奇遇ね! あたしも、やっ、やってるのよ」
「そうなんだ」
「え、ええ」
「……」
「……」
突然、会話が止まる。
数秒の沈黙が流れた。
「え? なに? この空気」
蓬田さんはそれ以上は一言も発することなく、用件についても一向に言わなかった。代わりに「うぅ……」と妙な唸り声が聞こえてくる。
「……あー……」
なにかを言いたいけれど勇気が出ない……みたいな蓬田さんのその雰囲気から、俺はすべてを察した。
「なるほど。つまり蓬田さんは……」
あ、いや待て。
「……」
「なっ、なによ」
蓬田さんの震えた声に、俺は悪戯な笑みを浮かべた。
「なんでもない。で、なんだったんだ?」
「えっ? い、いや! 今あんた絶対察してたでしょ⁉」
「なんのことかな。俺はただ『なるほど』って言っただけだし」
「あ、あんたね……‼」
なんでだろうな。蓬田さんを相手にしていると、時々すごく意地悪をしてやりたい気持ちになってしまうのは。
「で? 結局用件はなに? 蓬田さんは俺にどうしてほしいの?」
「ぐっ……!」
「ちゃんと自分の口で言ってほしいなぁ。そうしないとわからないし」
ビデオ通話じゃなくて良かったと心から思った。きっと今俺は邪悪な顔をしている。
「…………お」
「お?」
「お……オンラインで……一緒に、その……遊んでほしい、の」
最後のほうは消え入るような声量だった。
「なるほどな」
「だっ……‼ だって、あたし友達いないし! 知り合いとパーティ組んだことなんて今まで一度もないし! だいたい集団行動とか苦手だから、野良でパーティ組んでもいつも絶対だれかに暴言吐かれるんだもん‼ しょうがないじゃん‼!」
「わかったから。悲しい話はやめてくれ」
ちょっと意地悪しすぎたかもしれない。俺は少し反省した。
ここはお詫びの意味も込めて思う存分付き合ってあげよう。
「や、やってくれる……?」
「うん」
そんな子犬みたいな声出すなよ。
「俺も、ちょうど蓬田さんとなにかしたいと思ってたところだからさ」
家以外の繋がりができるなら都合がいい。渡りに船とはこのことだ。
「そ、そうなの?」
「まあね。それで? 俺は今晩も空いてるけど、今からやる?」
「う、うん! お、お風呂入ってくるから待ってて!」
そういうわけで、この日は夜遅くまで蓬田さんとゲームをして遊んでいた。
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