第3話 あの子といたちごっこ


 面倒な話ではあるが、言い換えれば一度話をしに行くだけとも言える。べつに説得が成功しなくてもいい。義理を果たすことができれば、あとのことは俺の管轄外だ。そんなことでこれ以上揚羽さんに絡まれなくて済むようになるなら、お安いとまでいかなくても、まあそれなりに楽な御用ではあった。


 というわけで俺は喫茶『スワローテイル』を出てすぐ、揚羽さんに教えられた住所へと向かって歩いた。俺は大学も家の近くにあるところに通っているので、生まれてこのかた地元からは出たことはない。勝手知ったる街並みなので、簡単な目印と目的の家の苗字だけ教えられればそれで十分だった。


「ここか……?」


 足を止める。


 見上げた先には——屋根付きの門扉。


 上等な入り口に俺は面食らった。


 閑静な街並みのなかでひと際異彩を放つ二階建ての大きな家だ。こんな良い家が揚羽さんの実家だなんてにわかには信じられない。いやさすがに勘違いか? と、もう一度門扉を確認すると、立てかけられた表札には厳かな字体で『竜野たつの』の二文字が刻まれている。どうやら間違いではないらしい。


「失礼します……」


 門扉を抜けて敷地に入ると、すぐに広い庭がお目見えする。大人数でバーベキューをやっても余りあるくらいの広さに植栽も整えられていて、縁側には涼しげな空気が漂っている。人気のなさと格式高さのせいでまるで異世界じみた空気が漂っている。


 こんな敷居の高そうな家に来ることになるとは思わなかった俺は、かすかに緊張を覚えながらチャイムを鳴らした。玄関の向こうで聞き慣れた来客音が響く。


 けれどしばらく経っても、だれも出てくる気配がなかった。


 ——言っとくがチャイム鳴らしても絶対出てこねえからな? そんときは遠慮せず勝手に入ってやりゃいい。大丈夫だ。身内のあたしが保証してやる。


 揚羽さんの悪い顔が脳裏によみがえる。


「……就職に響いたりしないよな」


 とりあえずトラブルが起きたときの言い訳だけ考えながら、俺は恐る恐る玄関の戸をガラガラ引いた。鍵はかかっていなかった。


「入りますよー。入りますからねー」


 家のなかは暗かった。おまけに不気味なほど静かで、俺の声も廊下の先まで響いてかえってきてしまうくらい。こう言っちゃ難だけど、ちょっと廃墟じみている。


「ほんとにいるのか……?」


 すぐ横のリビングに人の姿がないことを確認すると、俺は先を歩く。


 それからはほぼ探索だった。冷たい廊下を歩きながら、いくつもある居間の戸を引いてはなかを覗き込む。それを繰りかえしていく。居間はどれも畳張りの和室だった。外観からの印象通りの、所謂お金持ちっぽい屋敷で、なんだか本当に空き巣になった気分だ。


「ん……?」


 そうして一階をあらかた探し終えたところで、ふと違和感を覚えた俺は、ふたたび入り口近くのリビングへ戻った。そこから直接台所へ抜けると、テーブルに並んだ四つの椅子のうち一つの位置が乱れていることに気づく。だれか座っていたのか。不意に頭のなかに、黒い服を着た探偵が椅子に触れて「まだ温かい!」とカッコよく決めるシーンが浮かんだ。


「いやいや……」


 子供っぽい発想に自分で呆れる俺だったが、そのとき、グツグツと水が沸騰するような音が聞こえてすぐ我にかえった。——レンジのうえ、真っ白な電気ケトルが起動していた。注ぎ口からは湯気が立ち昇っている。


 これは……さっきまでここにだれかがいたってことじゃないか?


 明確な証拠を掴み、いよいよ真剣になる俺だったが……そのとき。


 ——チンッ。


「えっ?」


 なんか、出てきた。


 トースターから顔を出すのは二枚の食パン。


 見事こんがりきつね色に焼きあがっている。すごく美味そうだ。そういえばバイト終わってからまだなにも食べていない。あの店長まかないも普通に金取ろうとするんだよな……。


 って、いやいやそうじゃなくて。


 なんか、これ……今からめちゃめちゃご飯食べようとしてない? ケトルで珈琲でも淹れて今からすげえ優雅なティータイムキめようとしてない? 


 唖然とする俺の視界の端で、小柄な影が動いたのはそのときだった。


「あっ、おい!」


 いた! マジでいた!


 廊下のほうへ颯爽と消えていく。一瞬だけ見えたのは女の子の姿だった。一体今までどこに隠れていたのか。「待ってくれ!」俺は慌てて追いかける。


 脱兎のごとく逃げていく女の子はまさに兎のように華奢な身体で、けれど俊敏に真っ白な素足で廊下を駆け抜けていく。すばしっこくて追いつくのもやっとなくらいだが、派手に緑色に染まった癖ッ毛のある長髪のおかげで薄暗い廊下でも見失わないのが幸いだ。


「話を聞いてくれ!」


 聞く耳持たず女の子は二階へ続く階段を上っていく。急いで俺も続く。


 だが、そのとき階段のうえから大量のビー玉が雪崩なだれのように落ちてきた。


 咄嗟に避けられず、俺は足の裏でビー玉を踏みまくる。痛みはそれほどじゃないけど球体が滑って体勢が維持できない。そのうち俺は派手に転んだ。右の脛を強かに階段にぶつける。


「痛ッッ……‼ ……っ~~……」


 悶絶した。声も出ない。

 ……なんでこんな目に遭ってるんだ、俺は。


 なんとか二階に上がると、すでに女の子の姿はなく、代わりにテカテカと廊下の床がローションのようなもので濡らされていた。さらに廊下の先では大きな扇風機が最大風力で回っていて、手前には段ボールが置かれ、そのうえで焼き魚が置かれた皿が準備されていた。「な、なんだあれ……?」と困惑していると、やがてだんだん扇風機の風に乗って、鼻がひん曲がるような激臭が運ばれてきた。「こ、これって……」まさかクサヤか?


「う、うぅ……っ……」


 激臭による吐き気に襲われながら、ぬめった床に足を取られながら、気合で俺は廊下を進んでいく。そうしてなんとか扇風機を停止させた。大きく息をつく。


「なんでこんなに準備いいんだよ」


 泥棒にでも備えていたのか? それにしたって罠がいちいち小賢しい。


 そんなこんなで道中体力と気力を使い果たした俺は、へとへとになりながらも女の子が逃げ込んだであろう部屋の扉の前に立った。引き戸に電流トラップでもあるかと緊張したがさすがにそこまでの罠はなく、戸はあっさりと横にずれた。


 しかし部屋に踏み出した瞬間、ナニカが頭上に落ちてきた。ぶわっ、と一気に視界が真っ白な粉塵によってさえぎられる。「なっ……ッコホッ! コホッ……‼」粉を吸い込んだ俺は派手に咳き込んだ。まさか、これ、チョークの粉か……?


「アクアボンバァァァ……‼」


「え?」


 そして間髪入れず、部屋の中央で待ち構えていた女の子(なぜかひょっとこのお面をかぶっている)が、持っていたカラフルなウォーターガンから大量の水を飛ばしてきた。噴射された水はチョークの粉でむせていた俺の顔面に直撃した。


「ァ、プッッ……‼」


「よぉし‼ 命中‼」


 口のなかと鼻の穴に一気に水が流れ込んでくる。


「ちょウプッ……や、やめッ……ブブッ!」


「フハハ! いいぞ効いてるぞ!」


 どうして俺は知らない人の家で溺れそうになっているんだ……。


 浮かんだ疑問に答えてくれる者はどこにもいない。ただ必死に呼吸をしようともがく俺の耳に代わりに聞こえるのは、女の子の妙にムカつく高笑いだけだった。


 執拗な仕打ちは、ウォーターガンの水がなくなるまで続いた。


「ふんッ、まいったか侵入者め! 悪いことをしようとするからこうなるんだ‼」


 白い粉と大量の水でぐちゃぐちゃになった俺は俯いてその場に立ちつくす。


「これに懲りたら二度と不法侵入なんて罪は侵さないことだな! フハハ!」


「……」


「いやぁ、にしてもあたしこっちのエイムも最強じゃん……リアルに活かすならTPSよりもFPSなんだろうけど、やっぱずっとやってると鍛わるもんよねえ。フフ、やっぱウデマエSは伊達じゃないってね!」


「……」


「にしてもよくできてるわよねぇー、このシューター型水鉄砲。初めて使ったけどなかなかだわ。やっぱ撃ち合いならシューターなんだよなぁ。キル速もそこそこだし。これでウルショまで付いてたら言うことなしだけど、まあそこまでリアルに求めるのも贅沢って話だしなあ」


 お面を装着した女の子がぶつぶつと意味不明な単語を口にしているのを聞きながら、俺は怒りで口元がひくつくのを感じていた。


「ん……あれ? なに突っ立ってんの? キルされたんだったらさっさと消えなさいよ」


 そしてその言葉を最後に、俺の堪忍袋の緒はぷっつり切れた。


「いい加減にしろぉ‼」


 屋敷のなかに怒声が響き渡った。






 大声を出すなんて何年ぶりだろう、と心のどこかで俺は思った。むかしから母親には「御雪ちゃんは本当におとなしい子ね~」と愛でられ、父親には「おまえはいい証券マンになる」とよくわからない誉め言葉をもらうくらいには静かにつつましく生きてきた俺にとって、だれかに怒って平静を失くすなんて真似、考えられなかった。断言するが、物心がついた頃から口喧嘩すら一度だってしたことがない。


 怒りを露わにしてしまったあとは、だから俺自身もちょっと驚いた。


 俺こんな声出せたんだな……。


 幸い衝動は一瞬のことで、すぐに冷静さを取り戻せたけど、なんだか身体はまだ宙に浮いたみたいにふわふわとしていて、まだ妙に頭がぼーっとしている。


「すみませんすみませんすみませんッ‼」


 だから気づかなかったのか、気がつくと女の子は部屋の隅っこで毛布に頭を突っ込みながらぶるぶると震えていた。


「あ、いやごめん、今のは……」


「許してください許してください許してください……ッ‼」


 咄嗟に逃げ込んだんだろう、大きな毛布のなかから鼠色のショートパンを穿いた小さなお尻が突き出ていて、ぷるぷると小刻みに揺れている。さっきまでの威勢の良さはどこにもなく、なさけない声で許しを請う女の子がそこにいた。


「あ、あたしなんかめっちゃガリガリだし! 全然かわいくないし! お、おっぱいもそんなにないから、絶対楽しくないっていうか!」


「いやなにが……てか、そういうんじゃなくて」


「だ、だから乱暴しないで!」


 懇願する声はめちゃくちゃ悲壮感にあふれていて、俺は立ち尽くしながらなんとも言えない気持ちになった。この子、ホントになんなんだ。


「いろいろ勘違いしてるみたいだけど、べつに俺、空き巣でもなんでもないからな?」


「う、嘘! 絶対嘘! そうやって油断させておいて、どうせあとでぺろっといただくつもりなんでしょ⁉ まるでオオカミね! 今晩が満月じゃなくてよかったわ!」


「落ち着いてくれ」


 なにを言っているか全然わからない。


「キミの母親に頼まれたんだよ。竜野揚羽さん」


「揚羽の差し金⁉ ま、まさかお金がなさすぎて、とうとう暴漢にあたしを売ったのか⁉」


「んなわけないだろ。揚羽さんの店で働くよう、説得してくれって頼まれたんだ」


 母親のこと下の名前で呼び捨てって。どんな親子関係なんだよ。


「せ、せっとく…………?」


 小振りなお尻がぴたりと動きを止めた。


「キミ、ずっと引き籠もりなんだろ? 揚羽さんに聞いたよ。事情までは知らないけど、それでも自立したい気持ちもあって、今ちょうど働き口を探してるって。そうなんだろ?」


 詳しいところまでは教えてくれなかったが、この子が数年間ずっと家から出れていないということだけは聞かされていた。


「……引き篭もりじゃなくて、自宅警備員だもん」


「それなにが違うんだ?」


「全然違うもん!」


 バッ、と勢いよく布団を振り払って小柄な女の子がまた現れた。だぼっとしたオーバーサイズの黒シャツがめくれて、ほっそりとしたお腹と小さなおへそが一瞬だけ見えた。でも相変わらず顔はひょっとこのお面に隠されていて見えない。


「とりあえずお面外してくれる? 顔が見えないと話もできないからさ」


「…………」


 女の子はしばらく怪訝そうにしていたけど、俺が嘘をついていないことをようやく理解したのか、渋々といった感じでひょっとこのお面を外した。


 そして——


「え……?」


 時間が、止まったみたいだった。

 もちろん現実は止まっちゃいない。

 でもそれくらいの衝撃だったんだ。


 女の子の素顔は想像以上にかわいかった。思ったより柔和な目元に、くりくりとした大きな瞳、乳白色の頬っぺたなんかお餅みたいで、小振りな鼻はなんだかリスっぽい。


 ただ、俺が本当に驚かされたのは、そんなところじゃなくて。


「蓬田、さん……?」


 彼女が、俺の知っている人だったからだ。


「え……? な、なんで知って……」


 女の子は意表を突かれたみたいだった。


 その反応がすべてを肯定する。


「やっぱりそうだ。蓬田りすかさんだよね? キミ」


「そ、それ、前の名前……どうしてあなたが知ってるの?」


「覚えてない? 俺……高校のとき、同じクラスだったんだけど」


「え……」


 困り切った表情で蓬田さんは俺を見つめる。


「こ、こんな真っ白な顔の人、知らない」


「それはキミのせいだろ」


 おまけに髪もびしょ濡れだ。元の顔がどんなだったかわからないかもしれない。


「御雪だよ。サッカー部で、最後のあたりは割と席も近くて、あ、そうそう、一度同じ図書委員にもなったこともあるじゃん?」


「そんな人、いたかな……」


「いやいたから。ちゃんと近くで顔見ればわかるって。ほら」


 カッターシャツの裾で乱暴に頬の粉を拭って、俺は蓬田さんに顔を近づける。


「如月御雪。覚えてるでしょ?」


 蓬田さんは急に距離を詰められてびっくりした様子だった。でもだんだん目を細めて、まるで眼鏡を外した近眼の老婆のような顔つきで俺の顔をじっとにらんだ。


「んん……ヨシマキ……ヨシマキ……」


「ま、マジで覚えてないの?」


「へっ? あっ……い、いや! たしかにそう言われればいたような気がする! うん! 思い出した」


「目が泳ぎまくってるぞ」


 こんなわかりやすい人初めて見た。


 というか。


 なんで俺、こんなに必死になってるんだ?

 高校で同じクラスだったなんて言っても、せいぜい一年にも満たない期間だ。喋ったこともあるがそれも数えられる程度しかない。そもそも蓬田さんとまともに喋ったことのある者すら珍しいくらいなんだ。忘れられてしまっていても仕方ないじゃないか。


「まあ、しょうがないか。俺も特別仲が良かったわけじゃないしな」


「えっと……ご、ごめ」


「謝んなくていいよ。蓬田さんにとっては、クラスのみんな、そんな感じだよね」


 一年も経たないうちに不登校になってしまった蓬田さんにしてみれば、むしろ思い出したくない記憶なのかもしれない。


「話を戻そうか。…………と、その前に、この状態をなんとかしなくちゃな」


 ぐちゃぐちゃのシャツを見下ろす。これはもうダメそうだ。


「蓬田さん、とにかくなにか服貸してもらっていい? あとシャワーも浴びたいんだけど」


「ず、図々しいな貴様!」


 再びひょっとこのお面で顔を隠しながらビシッと指で刺してくる。口調も妙なものに変わっていた。アレを被ると性格が変貌するのか? まあどうでもいいけど。


「このままの状態で帰れって? 蓬田さんがそんな薄情な人だったとは思わなかったな」


「うぅ……」


「そもそも、だれのせいでこんなことになってると思ってるんだ? なあ?」


「か、替えの服、もってきます‼」


 敬礼のポーズを取った蓬田さんが、そのまま急いで廊下へと走っていく。


「ふぎゃッ!」


 派手に転んだ音がした。



 

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