第2話 喫茶スワローテイルは人手不足


「なにかが足りなねぇんだよなあ」


 バイト先の店長である竜野揚羽たつのあげはさんがメニュー表をにらみながらそんなことを言ったのは、ちょうど夕方頃の客足が途絶えるタイミングだった。


「なにかってなんすか?」


「んー、わからん……わからんが、とにかくあと一品ありゃ、うちももっと繁盛すると思うんだよ、絶対」


 エプロン姿に三角巾も外さず、揚羽さんは低く唸り声をあげている。なんの確信があって言っているのか知らないが、とりあえず客がいなくてよかったと俺は思った。こんなだれが見ても元ヤンの強面女性がカウンターの裏でメニューをにらんでいるところを見られたら、少ない客が余計減ってしまうだろう。


「んー、やっぱがっつり系か……? カレーとか、ピザとかどうだ」


「喫茶店でジャンクなもの増やすのはどうかと」


 喫茶『スワローテイル』は商店街から少し外れたところにひっそりとたたずむ、ちょっとした隠れ家的な小洒落た外観のお店だ。少し隠れすぎているきらいもあるが。落ち着いた雰囲気を気に入って足を運ぶ常連客は少なくない。そんな静けさと珈琲の香りが一番の売りであるウチに、油っこい匂いが漂うのは勘弁願いたい。


「んでもなぁ、そうしないと食べ盛りの若ぇ子が来てくれねえだろ? 如月だって大学生なんだし、そういうのがあったほうがいいんじゃねえの?」


「がっつりしたものが食べたいならみんな他行きますし、わざわざ喫茶店には来ないでしょ」


「いやー、でもさあ」


「始まった……」


 揚羽さんの「これ」は今に始まったことじゃない。大体ひと月に一回くらいのペースで訪れる。そうして散々悩んだ挙句に「今のままでいいか!」となることまでが通例だ。


 なんでこうなるのかと言えば理由は単純。要するにこの人は喫茶店の「名物料理」というものに面倒な憧れを抱いているのだ。だから珈琲以外の名物を生み出そうとこうして時々発作的に新メニューの構想を練り始める。迷惑な話だ。


「大体これ以上繁盛したら、それはそれで問題なんじゃないですか。うち、接客ふたりしかいないんだし」


「うぅん、それはそうだけどよぉ」


「粘るな……」


 今のはいつも使う必殺文句の一つだったが、揚羽さんは折れなかった。今日のはなかなかしつこそうだな。これは長丁場になるかもしれない。これ以上絡まれる前に、さっさと食器洗いを済ませて店内の清掃をしておきたいけど……。


 と、計算を巡らせていると、カランと入り口のベルが鳴った。


「おはようございまーす」


「おっ、来たなぁー、漆原うるしばら


 入店してきたのは制服姿の少女だ。


 ふわっと丸みを帯びたクリーム色の髪のショートボブの頭を、ぺこりと下げて「おつかれさまです、店長」と挨拶する、いかにもイマドキな感じの女の子だ。緩やかに着崩したカッターシャツの裾からはほっそりとした腕が覗いて、白い肌がなんともまぶしい。


「おつかれさま、汐里ちゃん」


「おつかれさまです! 如月先輩っ」


 俺には頭を下げる代わりに花が咲くような笑顔を見せてくれる。


 漆原汐里うるしばらしおりちゃんは近くの高校に通う女子高生だった。今は三月だからもうすぐ二年生に進級する。と同時にこの喫茶店で働き始めて半年になる。


「悪いけど、エプロン着たら先に箒かけといてくれない? 今手が離せなくてさ」


「わかりました」


「いきなりでごめんね」


「いえいえ! 如月先輩の頼みなら、汐里はなんでもやりますから!」


 冗談なのか本気なのか定かでないことを言って汐里ちゃんは厨房の奥へ消える。すぐに可愛いエプロン姿になって戻ってくると、てきぱきと箒を持って清掃を始めてくれた。


「やっぱ漆原に来てもらって正解だなあ……ああいう若い子がウチに必要だと思ってたんだよ、ずっと」


「若い子ならここにいますけど」


「おまえはダメだ。気力もなけりゃ覇気もねえ。なによりなんの目標もなく日々を生きてる感じが面白くねえ。おまえみたいな奴がきっと、つまらん大人になっちまうんだろうなぁ」


「言いすぎだろあんた」


 散々な言われ様だ。「……目標ならありますよ」不満だったのでここは反論しておこう。


「むかしからの大きな目標がね」


「ほぉ? 言ってみろよ」


 食器を拭く手を止めて、俺は笑ってみせる。


「俺、スーツが似合う大人になりたいんですよ。それもくたびれた感じじゃなくて、しゃきっとしてて、活力みなぎる感じの、カッコいい大人に」


「素敵です!」


 声を上げたのは箒を胸に抱いた汐里ちゃんだった。


「先輩なら絶対似合いますよ!」


「そう? ありがとう。嬉しいよ」


 なにを想像したのか、妙にうっとりした表情で汐里ちゃんは、ほぅ、と熱っぽい息を吐く。


「具体的に、どういう仕事がしたいとかはあるんですか?」


「俺は、IT系の会社がいいなと思ってる。今は上場企業だし、経済的な安定は約束されてるし、俺の父親がそうだからね」


「先輩の、お父様が?」


「うん。今もバリバリのエリート社員。母さんと離婚してからも、ずっと我が道を歩いてる、尊敬できる父親さ。俺、父さんみたいになりたいんだ」


「素敵な夢ですね。わたし、応援します!」


 可愛い後輩に応援されて、俺は嬉しいような気恥ずかしいような気持ちになる。


「つまんねえなぁ……そんなもんになって本当に嬉しいか?」


「店長にはわかんないっすよ。店長には」


「あ、てめえ! 馬鹿にしやがったな!」


 がみがみうるさい店長を軽くいなしながら、食器類を洗い終えた俺は店の壁に立てかけられた時計を見やる。長針と短針が示す時刻は午後四時半。俺はエプロンの紐に指をかけた。


「そろそろ失礼しますね」


「ちょっと待て。話はまだ終わってないぞ」


「新メニューは反対です。そもそもウチの常連客の皆さんはみんな、揚羽さんの淹れる珈琲が目当てなんですから、考えるなら珈琲のことだけにしてください」


 事実、揚羽さんの淹れる珈琲は絶品だ。ほかにはない良さがある。と、いつも常連客は口々に話している。


「それでも諦められないなら、あとは汐里ちゃんに聞いてもらってください」


「え? わたしもヤなんですけど?」


「え?」


「違う。それとはべつの話だ」


 漆原はあとで話そうか、と揚羽さんが汐里ちゃんに邪悪な笑みを向ける。汐里ちゃんはすぐに顔を逸らしていた。


「べつの話ってなんですか? 店長?」


「……ついてこい」






 厨房の奥の扉から店の裏に出ると揚羽さんは三角巾を乱暴に脱ぎ去った。くすんだ金髪が飛び出て、くせのついた毛先が揚羽さんのほっそりとした首元に流れる。

 この人は目つきも悪ければ口も悪いが、なにもしていなかったら普通に美人だ。厨房で静かに料理をつくっているときだけ見惚れるくらいになると常連さん方が密かに話しているのを俺は知っている。


「おまえ、たしかもうすぐウチを辞めるんだったな?」


「え? ああ、はい。もうすぐ就活なんで」


「具体的にはいつまでいられる?」


「今は三月なんで夏になるまでは……って、前も言いましたよね。これ」


 今年で大学も卒業だからと、あらかじめ年明けに言っておいた。揚羽さんも「わかった」と頷いていた気がするのだが。


「ウチは今三人体制だ。しかもひとりはなにかと忙しい高校生。この状況で如月に辞められたら、休日はまだしも平日はあたしひとりになる」


「はあ」


「はっきり言って、やっていけない」


 すごいキリッとした顔だった。


「いやいや……だからそうなる前に新しいバイト雇ってくださいって、俺もう随分前に言ったはずなんですけど」


「そんな簡単に言ってくれるがなぁ。ウチの店はただでさえ見つかりにくい場所にあんだ。しかも時給は高くない。いや、はっきり言って安い」


「なんでもはっきり言えばいいわけじゃないですからね」


 なんで俺はこんなところで働いているんだろう。ほんとに謎だ。


「そんなウチにとって新人ひとり見つけんのが、どんだけ難しいことか……、わからないわけじゃないだろ?」


「知りませんよ……ってか、それならなんで汐里ちゃんは来てくれたんですか」


「漆原は目的が違う。例外だ」


「例外って」


「時給じゃなくもっと大きなモノを手に入れるために来てんだ。これ以上は本人の意向に背くので言えん」


 とは言いつつ、じめっとした眼差しで俺を見つめる揚羽さん。その視線の意味はよくわからなかった。まあ、事情なんて人それぞれだろう。俺は空気を読んで無理やり納得した。


「ゆえに命ずる。如月、おまえあと一年くらいウチで働け」


「あんたなんでそんなに面の皮厚いの……」


「なんだ、店長命令だぞ? 聞けないのか?」


「今パワハラで訴えたら絶対勝てるからな、俺」


 なんて駄目な大人だろうか。俺は無性にこの店のことが心配になってきた。家の近くにあるってことと、なにより雰囲気がいいってことで働き始めてかれこれ二年以上が経つけど、そういえばこの人が頼もしい店長だと思ったことは一度たりともなかった。


「来月から新年度だろ? 用意がいいやつは大体もうどこでバイトするか決めてやがる。わかるか? 今新人募集しても遅ぇんだよ。なあ?」


「だから知りませんって。そもそも全部揚羽さんがズボラなのが悪いんでしょ? 自分の責任なんだから自分で解決してください。俺には関係ないです」


 ここはちゃんと言ってやろうと頑な姿勢を見せると、揚羽さんは「え~……」となおも納得のいかない顔で子供っぽく唇を尖らせた。


「おまえ、ほんっっっと冷たいやつだよなぁ……そうやってきっとほかの女にも冷たくしてるんだろー? だからすぐフラれるんだぞ?」


「ひっぱたくぞ」


 論点を変えるな。


「とにかく、無理なものは無理ですから。ほかを当たってください」


「ほかとかないんだってぇ~、マジで」


「本当なんですか、それ」


「……へっ?」


「心当たりですよ。本当にないんですか? 一つも?」


「……」


「あるって顔ですね」


「………………まあ」


 ほら、やっぱりな。


「ならその人を当たればいいでしょ。俺は失礼します」


「ちょっと待てって! あるにはあるが、さっぱりアテにならねえんだよアレは!」


 揚羽さんが追いすがってくる。ああ、面倒くさい。


「アテにならないってどういうことですか」


「……あ、あたしの娘なんだよ」


 そして俺は言葉を失った。

 いや、絶句したといったほうが表現的にはふさわしい。

 それぐらいの衝撃だった。


「揚羽さんって……結婚できるんですね」


「そっちかよ! 子供のほうじゃねえのかよ!」


「いやそっちも十分驚きですけど、揚羽さんと結婚しようって男がいるほうが衝撃ですよ。とんだ物好きですね、その旦那さん」


「喧嘩売ってんなら買うぞ……まぁ、あたしも自覚はあるがよ。前の旦那とは上手くいかなかったし」


「なんだ、バツイチだったんですか」


「おい。なんで安心してんだよ」


 良かった。やっぱり揚羽さんは揚羽さんだった。


「それで、その娘さんがどうしてアテにならないんですか? ていうかどんな子なんですか」


「ちょうどおまえと同じくらいの年齢だ。ずっと働き口探してて、家も近い」


「めちゃくちゃ好都合じゃないですか。なにがダメなんですか」


「あたしのこと……嫌ってんだよ。すごく」


 苦虫を嚙み潰したような顔つきで揚羽さんが言う。


「数年前に今の旦那と再婚してから、もう満足に口も聞いてもらえねえ。あたしらと同じ家に住むことも嫌って、今じゃうちの実家で暮らしてる」


 思った以上に嫌われていた。というかめちゃくちゃ避けられている。


 いつもみたく怖い顔で空気の読めない発言でもしたんだろうな。きっと。


「おまえ今絶対失礼なこと考えたろ」


「とんでもございません」


「いーやその顔は絶対考えてる顔だ! くそ! なんも事情知らねえくせに!」


「そんなことないから、ちょっと落ち着いてくださいよ」


「いや、落ち着かん! そんな顔をすんなら、おまえ今からちょっと行ってきて、あいつのこと説得してきてこい」


「は? なんでそうなる……」


「あたしが行くよか歳近いやつが行ったほうが話も聞いてくれるだろ。おまえは冷酷なやつだが外面は良いし、愛想ふりまくのも得意だし、適任だって」


 お願いされてるのか喧嘩売られてるのかどっちだろうこれは。


「人にモノを頼む態度じゃないですし、そもそも俺が行く筋合いも」


「いいから一度だけ! いや先っちょだけでいいから! 安心しろ、向こうは男を知らねえ初心な女だ。すこーし優しい態度みせてやってから、ちょちょっとそそのかしてやりゃ、すぅぅぐに股だって開いちまうだろうさ」


「あんた最低だ」


 母親として終わっている。娘さんが可哀想でならなかった。

 こんな大人にはなりたくない。俺は強くそう思った。


「な? いいだろ?」


「……行ったら、俺のことも諦めてくれるんですよね?」


「おう、もちろんだ」


「はぁ~」


 深々とため息をつく。なんだか頭まで痛くなってきたな。


「一度だけですからね」



 

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