りすかさんの手首の裏には。

伊草

第1話 プロローグ


 高校の卒業式は爽やかな晴天の下でおこなわれた。


 一週間前まではこの時期前例がないくらいの寒波に見舞われて、もうすぐ三月に差しかかるというのに呆れるくらい雪が降っていたから、どうなってしまうのかと先生たちも不安な顔をしていたけど、そこは神様が気を利かせてくれたのか、前日の昼くらいから大雪も止んで、今朝にはすでに青空が広がっていた。


 外は相変わらず寒くて、それは式がおこなわれた体育館でも同じで、締め切った屋内だというのに吐く息は白くて、足先なんか痛いくらい冷えていて、保護者のなかにはマフラーを巻いてる人だっていた。もちろん卒業生の俺たちは目立つ防寒具なんか許されなくて、ブレザーの内側にニットを着込んだり、密かに内ポケットにカイロを入れたり、露骨に厚手の靴下を穿いたり、とにかく涙ぐましい努力をしてなんとか乗り切った。入場のあとはただ座っているだけだったのが幸いだったかもしれない。中学の卒業式じゃ生徒一人ずつ名前を呼ばれて、そのたび壇上に上がって校長先生から卒業証書もらって、みたいなやり取りがあったけど、生徒数の多い高校じゃそんな面倒は全部省かれる。着席したら決まったときだけ頭を下げて、あとはお行儀よく座っておいて、名前を呼ばれた代表が証書をもらうのを、席からぼーっと眺めていたら、いつのまにか時間が過ぎていて、気づくと退場の時間になっている。


 そんなわけで卒業式はつつがなく執りおこなわれ、ふたたび教室に戻った俺たち卒業生たちはそのあと、委員長が涙ぐみながら先生への手紙を読むのを聞き、つられて感極まった先生の感謝の言葉を静聴し、最後に有志の生徒たちが作ったらしい学生生活をまとめた映像なんかを鑑賞したりして、ついに解散となった。


 今は校舎を出たグラウンドの近くで、まだたくさん積もっている雪の山を背景に、みんなで集まって写真を撮ろうとしているところだった。


「あ、ごめんマサキ。俺、ちょっと忘れ物」


「え? いやでも、もう集合写真撮るって……」


「ごめんな。もしあれだったら、俺抜きで撮ってもらっていいから」


「ちょっ……おい! 御雪みゆきッ!」


 卒業生の集団から抜け出して、ふたたび学校のなかへ戻る。


 校舎は黙りこくったように静かだった。もう残っている生徒もいないのだろう。まるで祭りのあとの静けさだ。全部が終わって、やがてまた始まるまでの、まだなにでもないモラトリアムの時間が、寂しくて冷たい建物のなかを流れている。


 二階の教室はまだ鍵がかかっていなかった。なかに入ると、机と椅子が並んだ室内は照明が消されてすでに暗かった。見慣れた教室のはずなのに、無音の空間はなんだか時間に取り残されたみたいで、まるで別世界に迷い込んだかのよう。


「あった」


 机のなかに入っていたスマホを拾う。危ないところだ。もしあのまま帰っていたら、またあとで学校に呼び出されて、先生と気まずい再会をすることになるところだった。


 ——ふと。


 不意に、ある席が気になった。窓際の列の一番後ろ。薄暗いなかでもいっそう暗い位置にある一席。椅子は小さくて、机の表面は青空をかすかに反射している。


 空席だ。だれも座っていない。みんな帰ったから、そんなことはあたりまえなんだけど。そうじゃなくて、この席がこうして空いているのは、なにも今日だけじゃなかった。


 なんとなく机の表面を撫でてみる。つるりと滑らかな感触がかえってくる。


「如月くん?」


「えっ、……す、杉内先生」


 教室の入り口あたりにスーツを着用した髪の長い女性が立っていた。杉内先生だ。俺はすかさずスマホをズボンのポケットに滑り込ませる。


「なに? まだ帰ってなかったの? それとも教室になにか用事?」


「まあそんな感じです」


「ふぅん」


 杉内先生は訝しげな顔をしていた。俺はとにかく笑みを取りつくろって、なんとかごまかそうと努める。すると杉内先生はしばらくして目を丸くした。


「……その席」


「あ」


 机に触れていた手を慌てて引っ込める。べつに、なにか悪いことをしていたわけでもないけど、なぜだか妙に罪悪感が襲ってきた。無性に言い訳したくなった。


「ち、違うんですよ。とくにやましいことをしてたわけじゃなくて……ただ、ちょっと、気になっちゃって」


「気になった、か」


 先生は浅く息をつく。


「……蓬田よもぎださん、結局、来てくれなかったものね」


 蓬田さん。


 なんだか、とてもひさしぶりにその名前を聞く気がした。数年前はなにかと話題に出たものだけど、今じゃ滅多に聞かなくなった、この永遠の空席の主の名前だ。


「卒業式くらいは顔を出してみないかって、何度も掛け合ったんだけどね」


「そう、だったんですか?」


「うん。でもダメだった。最後は会ってすらくれなくなって」


「しょうがないと思います。リスカちゃ……蓬田さん、もう二年くらい来てないし、今さらみんなと会っても、きっと気まずいだけだったろうし」


「そうだけど、さ。それでも最後くらいはって、思うじゃないの」


 理数科コースは普通科と違ってクラスの入れ替えがない。三年間同じメンバーだ。だからこそ杉内先生にとっては教え子たちへの思い入れもひとしおだったはずだ。進路相談のときは俺にだってすごく親身になってくれた。


「せめてあの子が普通科だったら、クラス替えのときにでも帰ってこれたんじゃないかしら」


「そういう問題じゃないと思いますよ。たぶん」


 そう。そういう問題じゃない。


 蓬田さんはそんな理由で来れなくなったわけじゃないんだ。


「はぁ、心配だわあ。これからどうするのかしら、あの子」


「さあ、知りませんよ。そんなこと」


「むぅ……如月くん、なんだか薄情じゃない?」


「俺には関係ない話なんで。卒業したら、もう一生会うこともないだろうし」


「そんなこと言って。曲がりなりにも三年間ずっとクラスメイトだったのに」


「クラスメイトって」


 最初の一年しか会ってないのに、そんなこと言われてもさ。


「まあ蓬田さんも、それなりに頑張って生きていくんじゃないですか? 大丈夫ですよ。学校なんか行かなくたって、意外とどうにかなるもんでしょ、人生って」


 わざとそっけなく言うと、杉内先生は「うわー……」と可愛くない子供を見るような目で俺を見つめた。


 それから、


「……わたしは、そんなに甘くないと思うわ」


 としんみり呟いて、教室の床へ視線を落としてしまった。


 それは俺なんかよりよっぽど深い説得力があって、大人はずるいなと、思った。


「おーい、御雪ぃ! 集合写真もう撮っちゃうぞぉ!」


 窓の外から呼ぶ声がして、俺はハッとした。


 マサキのやつ、俺抜きで撮っていいって言っておいたのに、まだ待っているのか。みんなを待たせてまで。律儀なやつだ。


「先生すみません。呼ばれたんで、そろそろ失礼します」


「今のは藤谷くん? 集合写真って」


「クラス全員で撮るみたいですよ。先生もどうですか?」


 誘ってみるけど、杉内先生の耳には聞こえなかったらしい。「……クラス、全員」と寂しそうにその言葉を呟く。まるでその意味を咀嚼するように。もう「全員」のなかには含まれていないだれかさんのことを憂うように。


 俺は頭を下げると、なにも言わず教室から出ようとする。


 けれど「……如月くん」と名前を呼ばれて、すぐ立ち止まった。ドアに手をかけたまま、首だけで振りかえる。


 杉内先生は、とても優しく微笑んでいた。


「卒業おめでとう」






 こうして俺の高校生活は幕を下ろした。


 思えばけっこう楽しい日々だったと思う。それなりに友達にも恵まれ、クラスメイトたちとは目立った喧嘩もなく、外で遊び呆けたことも一度や二度じゃない。中学から続けたサッカー部では三年間ずっとレギュラーを張れて、勉強のほうも優しい先生が多かったおかげで真面目に取り組めたし、体育祭も文化祭もみんなと協力しながら楽しめた。


 だから卒業式を終えて、三年間通った校舎から出るとき、ちっとも名残惜しさを覚えなかったのが、俺には驚きだった。感情的な性格でもなかったが、卒業式くらいは涙が出てくれると思っていた。それが蓋を開けてみれば、涙なんか一滴も流れる気配もないし、卒業の二文字はすんなり胸の内に落ちて、別れを惜しむ気持ちすら生まれなかった。


 それがなんだか、俺にはショックだった。


 杉内先生の言う通り、俺って薄情なやつなのか。


 だから今度こそ、名残惜しくなるくらいの日々を送ってやろうという気持ちで、俺は春からの大学生活に臨んだ。


 それからの日々は……まあ、けっこういい感じだったと思う。


 詳しいことは省くが、とにかく一念発起していろんなことに挑戦して、柄にもなく飲み会なんか開いてみたり積極的にサークル活動してみたり、まあいろいろと経験してみた。


 それでも、なぜだか、俺の心のなかはぽっかり穴が空いたみたいで。


 そんな虚しさを覚えるたび、ふと思ってしまうんだ。


 あの子は今頃、どうしているんだろう、って。



 

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