第2話 詐欺商法
バブル経済というものが弾けてから、会社は、
「経費節減」
ということを言い出した。
しかも、
「あれだけ広げた事業を縮小する」
ということが叫ばれ始め、当然のことながら、それまで、
「働け働け」
と言っていた会社が、今度は、
「残業するな」
ということになったのだ。
どうせ、産業をしても、残業手当が出るわけでもない。しかも、給料は下がり、賞与の支給もなくなったという時代があったくらいだ。社員、一人一人が節約しないといけないのだ。
そんな中で、それまでは、
「残業しろ」
という風潮があり、その分(全部とは言わないかも知れないが)残業手当も貰えたのだが、仕事が忙しくて、そのお金を使う暇がなかったというのが、バブルまでの時代だった。
しかし、それが、今度は、人件費節減ということで、残業もしないし、給料尾そんなにない。
となると、今度は、
「貧乏暇あり」
ということになるのだ。
それまでは、残業していたので、気にしたこともなかったが、この余った時間をいかに使えばいいのかということが問題になるのだ。
そんな時代を見越してか、新たな企業がブームを迎える。
つまり、その余った時間を、
「趣味に使う」
という時間の使い方だ。
趣味といってもいろいろあり、バブル時代などであれば、趣味と実益を兼ねたという意味で、
「ゴルフ」
などがあった。
今であれば、
「金持ちの趣味」
という感じになっているが、バブルの時代には、
「サラリーマンたるもの。ゴルフくらいできないでどうするか?」
などと言われた時代があった。
営業相手として、
「ゴルフを嗜む」
ということは、商社などでは当たり前のことだったのだ。
さすがに今では、そんなことはないが、ゴルフ用品店は、結構賑わっていたことだろう。
だが、そんな時代は今は昔。バブルが弾けてからは、
「お金のかからない持続できる趣味」
というものが増えてきただろう。
スポーツセンターに通うというのも、ブームとなっていたようだし、これは、特に健康に直結することなので、
「少しくらいお金がかかっても、長い目で見れば、元が取れるというものだ」
というものであろう。
それ以外には、
「芸術的な趣味」
というのも、結構人気があった。
「絵を描いたり」
あるいは、
「詩吟を営む」
などというのを教室で勉強することで、仲間ができるという意識でいるのは、
「自分だけじゃない」
ということで、結構いいことではないだろうか」
そんな中で、密かな人気となっていたのが、
「小説を書く」
というものであった。
文章を書くというのは、一見ハードルが高そうに見えるのだが、それは、
「自分にはできない」
という思い込みから来るのではないか? と考えるのだった。
確かに、簡単ではないが、根気よく、そしてコツさえつかめれば、そんなに難しいことではないと気づくのだ。どうしても、思い込みが邪魔をしていたので書けないと思い込んで諦める人がほとんどだが、そこを超えると、意外と継続はそんなに難しくはない。それだけ、
「文章を書くということは、自分に自信が持てるというものだ」
ということであった。
そんな中で、
「お金を掛けずにできること」
の中で、芸術的なこととして、
「小説執筆」
というものがあった。
小説執筆というと、確かに、用紙と筆記具があるか、パソコンがあれば、書けるだろう。さすがに手書きできつい場合は、パソコンがいい。パソコンは、確かに一台が、そんなに安いものではないが、他にも利用手段があり、一台持っていると、鉛筆や用紙のような消耗品ではないだけに、いちいち購入もいらないし、かさばることのない。
「比較的安価な趣味だ」
といってもいいだろう。
ただ、なかなか小説執筆というのは、ハードルが高いようだ。
一番のハードルは、
「書き上げること」
に尽きるのではないだろうか?
どうしても、プロの本ばかり読んでいると、
「キレイな文章で書かなければいけない。さらに、比喩などを使って、難しい書き方にしなければいけない」
などという縛りを自分の中で作ってしまい、そのうちに、
「俺に、できるわけはない」
と、思うようになり、本来は、その時に初めて気づいたものではなく、
「最初から意識していたことだ」
と感じないことが、余計に、完成を遠ざけることになるのではないだろうか?
確かに小学生の頃の作文でも、1時間の間に、一枚から数枚書けばいいだけなのに、
「一生懸命にキレイな文章にしよう」
と思うことで、時間との闘いを意識しながら書いている自分に気づくのだ。
小説を書くということを、必要以上に意識してしまうと、最後には一行も書けなくなってしまう。
「小説を書けるようになりたい」
と思うと。まず、本屋で、
「小説家になるには」
などというような、
「ハウツー本」
を読むことから始めるのが普通であろう。
今であれば、ネットで検索するという手もあるが、ネットだと、どうしても、無料ということもあり、その文章の説得力に、限界を感じてしまうかも知れない。
本であれば、出版社がプロの先生にお願いして書き上げてもらったものを製本し、それなりの値段で販売するのだが、ネットにおいては、誰も発信できるということで、
「プロの先生」
が書いたものだというわけではない。
そもそも、
「プロの先生が掛か板ハウツー本が、素人がネットに挙げたものよりも劣る」
という考えが、果たして正しいといえるのだろうか?
というのも、
「ハウツー本」
と呼ばれるものに、ランキングつけができるのかどうか。怪しいものである。
確かに、皆、
「当たり前のことを言っているだけ」
と思って見れば、
「それ以上でも、それ以下でもない」
と感じることができる。
確かに、同じようなことを書いてはいるが、説得力という意味でいうと、実はネットの方があるのではないかと思えるのもある。
ただ、それも、実際に本屋で購入し、読了したことで比較になるのであって、その後にネットで検索してみると、同じようなことを書いているとしても、その人なりの苦労が書かれていることが多い。
本にも書かれているのだろうか、
「距離の近さ」
という意味でいけば、素人の方が自分に近い。
努力を理解できるとすれば、ネット側なのだ。
つまりは、
「ハウツー本を読む時点で、まだまだ自分の作品を、完成させたことがないという人が多い」
ということであろう。
作品を完成されるということが、
「作家になる」
という意味で、一番最初に潜るターニングポイントなのだからである。
ほとんどの人が、
「自分の作品を一作も書き上げたことがない」
という状態で、諦めるであろう。
というのは、どんな形でも自分の作品を一度でも書き上げることができさえすれば、アマチュアであっても、
「小説家になった」
という気分になれるのだ。
もちろん、そこから道は険しくなっていくのだが、少なくとも、一作でも自分の作品を書き上げたことのある人は、
「これで、これからも、書き続けてもいいというお墨付きをもらったも同然ではないだろうか?」
と思うのだ。
そう思うようになると、
「俺には作家になんかなれない」
という理由で諦める人は激変するのではないだろうか?
もっと違った意味、例えばリアルな生活の中で、小説を書いている場合ではなくなってしまったなどという場合である。
人間、いつどこで何が起こるか分からない。
それを思うと、考えることはたくさんあるというものだ。
小説を曲りなりにでも書けるようになると、次に思うのは、
「コンテストや公募などに応募する」
ということである。
そのためには、覚えなければいけないことがたくさんあり、そのためのハウツー本も何冊か出されている。
例えば、
「文学新人賞の取り方」
などという内容の本である。
ここには、もちろん、誰にでもいえる、文章作法などが最初に書かれているが、途中からは、どの出版社の新人賞や文学賞に、どのような作品を応募するか? などということが個々に書かれていたりする。
つまりは、
「ゲームなどの攻略本」
であったり、
「受験における傾向と対策」
などという本に値するというようなものではないだろうか。
そんな本を読んでいると、
「どの賞には、どのようなジャンルの作品がいいか?」
ということが書かれていたりする。
基本的には、
「どんなジャンルでもいい」
と書かれているところでも、審査員の先生に、
「時代小説が専門」
というような人がいれば、どうしても、そっちに偏るというものである。
これは、仕方のないことで、応募する方が、その傾向を知っていなければ、いくら最終審査に残るような作品でも、ジャンルが違えば、難しいということである。
そもそも、新人賞に応募したりするには、それなりの、
「暗黙のルール」
のようなものがある。
書き方であったり、綴じ方などの詳しいことはいちいち応募要項には書いていない。だからと言って、いろいろな形で出すのは、まずいといえよう。
「ホッチキスで綴じてはいけないとは書いていないから、ホッチキスを使った」
「折りたたんではいけないからといって、折りたたんで送った」
「郵便は、簡易書留などのように、追跡ができるものがいいのに、そのまま、普通郵便で送ってしまった」
というのは、いけないわけではないが、応募するにしては、いささか失礼というものである。
もちろん、それで審査に落とされるということはないだろうが、心証が悪くなるのは、当然のことだ。
「だったら、最初から応募要項に、詳しく書いておけよ」
ということになるのだろうが、なかなかそうもいかないというものだ。
そのために、
「新人賞の取り方」
という本があるわけで、応募の段階で、詳しく書いていれば、
「この本が売れないではないか」
ということにもなるであろう。
作家になるためには、昭和の昔であれば、
「新人賞などの文学賞に入選するか、持ち込み原稿を見てもらうか」
という二択しかなかった。
しかし、新人賞に合格するためには、いろいろハウツー本で勉強し、
「傾向と対策」
を練る必要がある。
そういう意味では、
「新人賞に引っかかりやすいジャンルとして、過去の受賞作を読み込む必要があるだろう。かといって、そのままコピーしたような作品は、最初から受け入れられないだろう。あくまでも、物まねは物まねでしかない」
からである。
小説を書いていて、
「人のマネ」
これほどつまらないものもなければ、情けないこともない。
そういう意味で、まず、新人賞の応募は、ここが、最初のネックであり、ジレンマなのかも知れない。
そのうちに、
「プロになったとしても、自分の書きたいものが描けなくなるんだろうな」
と考える人もいるだろう、
しかも、新人賞を取ったとしても、
「それ以降、本が売れた」
ということのない作家がたくさんいる。
最近は、ドラマやマンガでも、そういう話が多かったりする。
「二十歳そこそこで新人賞を取り、期待の新人若手作家という触れ込みで、次回作を出したとしても、受賞作に及ばないということで、なかなかそれ以降は、原稿の依頼がなくなった」
などということもよく聞いたりする。
しかも、次回作を書こうと思っても、
「受賞作で燃え尽きてしまった」
という、ことで、まったく筆が進まない人もいる。
そこには、それまで自由にできていた執筆作業が、
「プロ」
ということで、いろいろな注文の中で書かなければいけなくなるのだ。
嫌いな分野であっても、依頼であれば書かなければいけない。もし、断ったりすれば、二度と原稿依頼が来ないと思ってもいいだろう。
今まで。本職を持っていたが、新人賞を取ったことが自信となって。。-、
「作家一本でやっていこう」
と思う人は結構いるだろう。
だが、実際にやってみると、まったく頭に何も思い浮かばなかったり、出版社からの監視などによって、まるで拉致監禁されているような精神状態に陥ると、
「結局、俺は何もできないんじゃないか?」
ということで、会社を辞めたことを、
「早まった」
と、思ってしまうことだろう。
そんなドラマを見ていると、
「新人賞を取って、作家になるという王道も、恐ろしいものだ」
ということになる。
ただ、それは、
「プロ作家になる」
という意味で、そのことを考えると、
「自分にできるだろうか?」
と感じる。
だとすると、
「プロにならなくてもいいから、自分の本を何冊かでも、出せればいいな」
と思うようになる。
そこで出てきたのが、
「本にしませんか?」
という広告の出版社であった。
その出版社というのは、アマチュア相手の商売で、前述の、
「持ち込み」
というものを、作家になるためのもう一つの道だと書いたが、それまでであれば、持ち込み原稿などと、出版さに持っていっても、まず間違いなく、本人が帰った瞬間に、ゴミ箱にポイである。
つまり、もし、面会の後で、何かボールペンなどを忘れたのと思い出し、踵を返して戻ってきたとしても、その、1分くらいの間に、原稿はすでにゴミ箱の中である。
出版社側も、気まずい顔でもすれば、少しは違うのだろうが、別に悪びれた様子もない。持ち込んだ人間は、ショックを受けるだろうが、考えてみれば、それくらい、当たり前のことではないだろうか。
そもそも、編集者の人間は、自分たちの従来の仕事もあるのに、何を新人ともいえないアマチュアの作品を、何が悲しくて読まなければいけないというのか?
「まだ、会ってやるだけマシではないか」
と、門前払いでなかっただけでも、ありがたく思えということであろう。
「なんと、ひどい仕打ちか?」
という人もいるだろうが、そもそも、持ち込み原稿を見てもらおうなどというのが、
「10年早い」
というものだ。
編集者は、
「新人賞を取った作家を一人前にしたり」
あるいは、
「プロ作家の先生の尻を叩いて、締め切りに間に合わせるようにしないといけない」
ということをしなければいけないのに、何が悲しくて、
「アマチュアの面倒なんか見ないといけないんだ」
ということなのである。
そんなことを考えていると、
「持ち込みなんか、本当は愚の骨頂なのかも知れないな」
ということも、次第に分かってくるようになるのだ。
それでも、
「一縷の望み」
というものに賭けてみたい」
という人もいるだろう。
そういう人に狙いを定めたのが、
「本にしませんか?」
という連中であった。
彼らがいうのは、
「原稿を送ってもらえれば、出版するための見積もりと、作品の評価をして送り返します」
というのである。
「どうせただなら」
という軽い気持ちで送る人もいるだろう。
すると、確かにキチンと作品の批評をして返してくるのだ。そこには、いいことばかりではなく、批評も書いてくれている。
そもそも、新人賞であっても、持ち込みであっても、一切、作品に対して、何も書かれていないのが当たり前であった。しかも、新人賞などは、
「審査に関してのお問い合わせには、一切応じられない」
と書いてあることが多く、
「作家になりたい」
という思いの強さからか、そのことが当たり前のように考えるが、実際であれば、
「これほどブラックなことはない」
と言えるのではないだろうか?
そういう意味で、作品の批評をしてもらおうとすれば、
「どこかの文章教室に通うか?」
あるいは、
「添削教室」
で、通信で行ってもらうかであるが、どちらにしても有料である。
しかも、
「文章上達」
という意味でのものであり、
「作家になるための教室」
というわけではない。
そういう教室もあるのだろうが、お金を払って受けるだけの価値があるのか、疑問である。
そもそも、そういうところの講師というと、かつて新人賞を取ったが、鳴かず飛ばすで、作家としての仕事がないから、こういうところで講義をするという、いわゆる
「夢半ばで挫折した」
という人が多いというような話を聴いたことがあった。
どこまでが本当なのか分からないが、出版社も契約した以上、こういうところでのアルバイト感覚の仕事でもさせないと、いけないのではないだろうか?
そういう意味で、
「どこまで信憑性があると言えばいいのか、難しいところだ」
と言えるのではないだろうか?
しかし、
「本にしませんか?」
という趣旨の出版社からの批評は、有料の添削教室に近いものがあるかも知れない。
まずは、悪いところから軽く批評しておいて、
「などという悪いとことがありますが」
ということで、その後褒めちぎった後で、
「悪い部分を補って余りある作品」
と称えれば、
「悪評もちゃんとしてくれる」
そのうえで、
「いいところを、たくさん書いてくれている」
ということであれば、当然、その評価を信じてしまうのは、当たり前のことであろう。
その上での、見積りであった。
「3つのパターンがある」
と書いてある。
「素晴らしい作品なので、出版社が全額負担し、製本した後で、有名本屋に一定期間並べる」
というもの、「企画出版」
といい、
「いい作品であるが、出版社がすべてのお金を出すのは時期尚早なので、お互いに金額を折版し製本し、その代わり、有名書店に一定期間並べる」
というもの、「共同出版」
という。
さらには、従来の、
「作者が全額出資においての、趣味として出す:
ということでの、普通の「自費出版」、
の3つである。
ほとんどの場合において、
「協力出版」
を言ってくる。
そもそも、企画出版などというのは、ありえない。(リアルな話として、芸能人か犯罪者のような名前の売れた人しか、企画出版はありえないと、作者は文○社からいわれたことがあった)
そして、この時、出版社側からは、
「法外な値段」
を吹っ掛けられるのだが、作者は、褒められたことで、前が見えなくなっているのか、信じられないことに、協力出版に応じるのだ。(リアルでは、この時点で、詐欺が分かったので、著者は、逆に利用することを考えたのだった)
そんなことから、次第に、その会社が怪しく思えてくる人も増えてくるのだった。
「相手をどのように信用させるか?」
ということが一番大きな問題なのであって、まずは、
「出版業界における闇の部分」
というものの把握が必要であろう。
たとえば、
「持ち込みの際に、まったく見ずに原稿を捨ててしまう」
あるいは、
「新人賞などの公募の場合、審査に関してのことは、一切質問を受け付けない」
というようなことは、普通に考えれば、
「どっちもブラックであり、闇ではないか?」
ということである。
他のコンクールだったり、選抜だったりしても、同じように、
「審査に関しては、一切五非公開」
というのは確かに多いが、それだけ、
「闇に包まれていることが多い」
ということなのではないだろうか?
そんなことを考えてみると、
「作家になりたい」
と考えることが悪いというわけではないが、
「世の中には、そういう純粋な気持ちを、平気で踏みにじる連中もいる」
ということを、こちらでも分かっていないといけないということであろう。
確かに、
「騙す方が悪い」
といってしまえばそうなのだが、言い方を変えれば、
「騙されるやつがいるから、騙せるうちに騙そう」
と思う輩もいるだろう。
中には、詐欺行為を働いているにも関わらず、本当であれば、すぐにバレることであっても、頭がよすぎて、騙された方が、
「騙された」
という意識もないまま、
「詐欺集団は、姿をくらました」
ということもあるだろう。
例えば、
「スリのプロは、相手が気づかない間にスリをして、中身だけを抜き取って、財布は返す」
という人もいるかも知れない。
「そうなると、被害者は、財布を開けてみるまで気づかない」
ということになり、ある意味、完全犯罪が成立していることだろう。
抜き取った後に、返さないと、財布がないことに気づいてその場で慌てると、
「その島で、スリはできない」
ということになることであろう。
被害者が騒ぐのと騒がないのでは、まったく状況が変わってくる。できるものなら、財布だけでも返すのが、スリの方も安全なのかも知れない。
「もし、戻す時に気づかれれば?」
と聞かれれば、その場で手から滑らせて、わざとその場に落とし。
「落ちていたのを、自分が拾った」
とでもいっておけば、刑事に面が割れてさえいなければ、何とでもなるというものだ。
ただ、刑事に顔が割れていたとしても、言い訳までは通じるだろう。
現行犯で逮捕しない限り、警察が逮捕も、容疑者として捜査することもできないのだ。
ただの、
「任意による参考人」
というだけで、いくら刑事が、
「こいつはスリの常習犯だ」
と思ったとしても、何もできない。
それが、ある意味、スリの狙いだったとすれば、彼らにとっては、スカッとするようなもので、
「留飲が下がる」
といってもいいだろう。
「現行犯でないといけない」
ということに、刑事も忌々しく思っていることだろう。
スリも、
「一度抜いた財布を元に戻すのは、かなりリスクが高いだろう」
昔であれば、
「スリも粋なことをする」
というように言われたかも知れないが、しかし、普通に考えれば、そんなリスクを犯すほど、遊びでやっているわけではないだろう。
そう思えば、
「すぐに気づかれないようにする」
という理屈が成り立つわけで、考えてみれば、
「合理的に考えれば、返す方が相手に悟られない」
という意味で、
「他に仲間がいるとすれば、他の活動を助けることになる」
というようなチーム戦なのかも知れない。
ただ、ここでも、本当は、
「騙される人間がいるから、騙す人間がいる」
というのも、あり得ることなのかも知れない。
今のような犯罪の複雑化であったり、コンピュータウイルスのような、
「専門家でないと見抜けない」
というようなことであれば、
「騙される方」
とすれば、溜まったものではないが、昔のような、
「気を付けてさえいれば、何とでもなる」
ともいえるのではないだろうか?
例えばであるが、
「スリが財布をスル」
ということであれば、すられないように、気を付ければいい。
「どうすればいいか?」
ということになるのだろうが、それこそ、いくらでもあるということだ。
例えば、ズボンのポケットに財布を入れておいて、ズボンのベルトを通す紐のようなところに、ゴム紐で財布を括りつけておけば、
「スリを行う」
などということは、無理である。
もちろん、
「はさみを持っていて、はさみで切ればいい」
ということになるかも知れないが。そこまでして気づかれるかも知れない相手に対して、執拗に狙うだろうか?
ということでもある。
ただ逆に言えば、
「絶対にすられるわけはない」
と思っているので、ある意味、一番安心しきっているということなので、
「これほど狙いやすい相手はいない」
といってもいいのではないだろうか?
それを考えると、
「スル方」
「すられる方」
とそれぞれに、イタチごっこのような気がする。
ただ、すれらないようにしようと思えばいくらでも手段はある。もちろん、昔の時代においてのことであるが、それを、
「ゴム紐で結びつけておくなど、恥ずかしい」
というかも知れない。
だとしたら、究極、
「スリのいるようなところに行かなければいい」
というだけのことである。
皆が、
「スリが出るから、出かけない」
ということになると、スリは、この世から消えてなくなるかも知れない。
もっとも、そうなると、
「スリがなくなる」
という以前に、経済が回らなかったり、時代というものが、機能しなくなっていたりするのではないだろうか?
ただ、
「騙される方に、まったく責任はない」
と、本当に言えるのだろうか?
確かに、
「騙す人がいるから騙される」
という理屈と、逆に、
「騙される人がいるから、騙す人が出てくる」
という考えは、後者に勘しては、解釈の問題として難しいのかも知れないが、本当にそうだろうか?
正直、騙す人というのも、
「相手に絶対にバレない」
という保証は一切ないだろう。
そもそも、
「世の中には、絶対ということはない」
という発想だってあるではないか。
「限りなくゼロに近い」
というのは、
「決してゼロではない」
ということでもあるのだ。
そういう意味で、
「出版社系の詐欺」
というものだって、どこかで、
「これは詐欺だ」
ということに気づくはずである。
もっといえば、
「ひょっとして詐欺ではないか?」
とウスウス感じていた人もいたことだろう。
「もしこれが詐欺だったら、俺はもう立ち直れない」
という人は最初から手を出していないだろう。
「詐欺だったとしても、騙されたのは自分が悪いということで諦めるしかないのかも知れない」
と思っている人がほとんどではないだろうか?
だとすれば、
「騙された」
といって皆が騒ぎ出したとすれば、その中に、本当に困っている人がどれだけいるかということだ。
もし詐欺だったとしても、
「授業料として、納めるくらいの気持ち」
でなければ、今頃、借金取りに追われているかも知れない。
そもそも、
「自分の趣味で、夢を叶えるため」
ということで、お金を出したのであれば、さすがに、
「なけなしの金」
を、ポンと出すわけはないだろう。
そう思うと、騙される方も、ある程度までは予知していたことだろう。それを他の人が、
「これは詐欺だ」
といって、騒ぎ出したからといって、自分もそれに乗るというのは、あたかも、
「自分は、詐欺に騙されるような、間抜けな人間です」
というのを口外しているようなものではないだろうか?
それを思うと、
「騙すほうだけが、すべて悪い」
という考えは、どこかおかしいのではないだろうか。
騙す方からすれば、
「騙されるやつがいるから、俺たちのような人間が出てくるんだ」
と言ったとしても、それに間違いはないに違いない。
「騙す方」
「騙される方」
それぞれの立場で、
「いたちごっこを繰り返している」
ということになるのだろう。
そんな詐欺商法で、潰れた会社も悪いのだが、実際には、
「騙される方も悪い」
という人がいる。
確かにそうだろう。実際に、
「自分の本を出したい」
ということで、最初は自分の貯金をはたいて、それで本を出す資金に充てていた主婦がいたのだが、そのうちに、味を占める形で、
「自分の書いた本を、書籍にしたい」
と思うようにあると、家族の金に手を付けたり、さらには、借金をしたりするようになると、とんでもないことになってしまう。
それはまるで、
「依存症」
に近いものだった。
精神的には違うのだろうが、感じとしては、
「買い物依存症」
と似ているのではないだろうか?
精神的に追い詰められたり、苦しくなると、人間は、
「何かに依存したくなる」
というのが、一種の依存症で、
「アルコール依存症」
「ギャンブル依存症」
などが、その代表的なものだろう。
買い物依存症は、他の二つとは違って、違法性的なものであったり、摂取することで、そのまま運転して交通事故を起こしたりなどということもない。
しかし、自己満足を、
「お金を使う」
という禁断の方法という意味では、似ているところがあるだろう。
完全に、麻薬中毒にも似た効果があることから、その常習性はなかなか治るものではなく、中途半端な治療であれば、
「禁断症状」
を、引き起こすということになるに違いない。
そういう意味で、一度、百万単位という金を自分のお金とはいえ、使ってしまって得られた満足感は、完全に中毒性を持つことになるだろう。
さらなる満足感を得るために、さらに禁断のお金に手を付けてしまうのだ。恐ろしいことだといえるのではないだろうか?
そもそも、普通であれば、一度自己満足を達成すれば、そこで、一度我に返って、後悔のようなものが襲ってくるのではないだろうか?
男が性行為の後に訪れる、
「賢者モード」
のようなものに見舞われれば、そこで一度冷静になれるはずなのだが、女性の場合は、性行為以外でも、
「賢者モード」
に陥るということはないのだろうか?
そうなると、もうm歯止めが利かなくなる。本来であれば、一生懸命に働いて稼いだお金ではないか。自分のお金であっても、それを使うことには、どこか、後ろめたさがあるはずだ。
いや、自分のお金だからこそ、余計に感じるものがあるはずだ。
その、
「結界」
を通り越してしまうと、麻薬中毒のように、スーッと気が楽になって、罪悪感が消えてなくなるということであれば、これほど恐ろしいことはないといえるだろう。
それを考えてみると、
「人間は、一度、結界がそこにあると分かっていながら、それを見逃してしまうということが往々にしてある。それが、人間の踏み入れてはならない世界であったとすれば、もう元には戻れない」
といってもいいのではないだろうか?
そんな、
「依存症」
のような麻薬に抑えが利かなくなって本を出すということは、家庭崩壊に、容易につながるというものである。
そういう意味で、詐欺商法でも、今のように実に巧みなやり方で、例えばターゲットを、
「機械などに疎い」
と言われる老人にしたり、巧妙なものも多い。
昭和の終盤の頃に起こった詐欺事件も、今から思えば、
「やり方がちゃちい」
ともいわれるかも知れないが、今に至る、
「巧妙な手口」
ともいえる詐欺としての、さきがけのようなものだった。
それを思えば、いかにこの詐欺がセンセーショナルなものであったかということが分かるというものである。
この詐欺というのは、いわゆる、
「老人をターゲットにしたもの」
ということが、一番の特徴であった。
しかも、それを会社ぐるみでやっていた。老人の、孤独さ、寂しさを利用した方法であり、一人暮らしの老人の家に巧みに潜り込み、社員がまるで、子供になったかのように、その老人に甘えてみたり、老人の介護を進んでやってみたり、中には、色仕掛けという、
「オンナを武器」
にする輩もいたりした。
そうして安心させておいて、
「金塊」
のようなものを売りつけるという悪徳商法であった。
やり方としては、相当ありとあらゆる詐欺の方法が用いられたようで、それだけ、法律も、
「穴があった」
ということであろう。
そういうこともあったから、今の法律が出来上がったといっても過言ではない。
だが、この時のこの詐欺だけは、騙された人間を悪くいうことはできないに違いない。相手が老人で、情に訴えて近づいてくるのだから、防ぎようがない。
しかも、巧みに相手に手の内を見せないなどというやり方は、企業ぐるみであるということを証明しているようだ。
最初は、一つ一つを細かくみれば、ちゃちいのかも知れないが、全体として仕組まれた方法は、相当にひどいもので、一度騙されてしまうと、後は言いなりであろう。
何といっても、騙されている本人たちは、ずっと騙されているという意識がないのだから、詐欺が明るみに出た時には、すでに、莫大な数の、そして、莫大な被害額になっていたことだろう。
そんな詐欺行為は、
「やる方が悪いのであって、騙された人間は、老後の貯えを根こそぎやられてわけだから、詐欺というものがどれほどひどいものかということを、表しているに違いない」
と言えるだろう、
しかし、自費出版社系の会社に騙されて、本を出した人を、
「可愛そうだ」
と言えるのだろうか?
そもそもが、
「橋にも棒にもかからないような小説を本にしたからといって、小説家になれると、本気で思っているのだろうか?」
ということである。
必死に小説家になりたいと思って、せっせと公募作品を作り、新人賞に応募して、やっと何回目かで、入賞を果たして、そこで、
「小説家としてのスタートラインに立った」
と言えるのだ。
それでも、次回作がしっかりできなければ、作家としては、中途半端、そんな状態で、会社を辞めて退路を断ってしまうと、どうしようもなくなってしまう。
「そんなに甘い世界絵はない」
ということを思い知らされても、会社を辞めてしまえば、後の祭りである。
そもそも、あの詐欺集団というのは、元々、バブルが弾けたことから出てきたものだ。
残業をしなくなり、
「アフターファイブをどのように過ごそうか?」
ということで、
「小説でも書こうか?」
という、いわゆる、
「俄か作家」
というものが増えたからだろう。
作家といっても、プロから、
「ただ、遊びで書いているだけだ」
と思っている人まで、ピンからキリである。
詐欺出版社は、そんな連中に目をつけた。
「ただ、趣味で時間つぶしくらいにしか思っていなかった連中が飛びつく」
といってもいいだろう。
そもそも、作家になりたいと思って書いていた人は一定数いるだろうが、その数はたいしたことのないものであるのは間違いないだろう。
そんな中、俄かで増えてきた連中が、
「何か面白そう」
といって、原稿を送ってみる。
その時は、もちろん、小説を書き始めてまだ日が浅いということもあるだろうが、この時期が本当は一番有頂天の時期なのかも知れない。
というのも、前述したが、
「小説を書くということの最初のハードルが、最後まで書き上げること」
というものだ。
つまり、
「最後まで書き上げることが一番の悦びであり、それができるようになると、有頂天になるのは当たり前である」
と言えるだろう。
「小説を書けるようになり、それを見てくれる人がいる」
それだけでも至高の悦びなのに、それを批評してくれて、最後には、褒めちぎってくれるのだから、
「自分が、まるで小説家になった」
という気分になるのも、確かに無理もないことだろう。
その心理に関しては、しょうがないと思うし、そこまでは、昭和の事件のように、
「騙されるのは仕方がない」
と思う。
しかし、今度はそれを本にして、実際に売りだそうということであれば、話は別だ。
一冊の本を作るのに、1,000部という単位で作り、
「定価1,000円を販売価格にする」
というものである。
単純に考えて、
「総額100万円」
ということになるだろう。
「定価というものは、原材料費から、製本までの製造原価に、必要経費や営業経費などを加えた金額に、利益分をかさまししてつける値段である」
ということではないのだろうか。
つまり、製造原価、経費、利益をすべて含めた値段が、1冊1,000円ということになるのだ。
しかし、出版社は、それを作家に、
「協力出版なので、お互いにお金を出し合う」
ということでいってきているのだから、普通に考えれば、定価の半額、50万円がいいところだとおもうだろう。
しかし、実際にやつらが言ってきたのは、
「150万円の出資をおねがいしたい」
という見積りであった。
こんなものは、いくらなんでもおかしいと思い聞いてみると、
「それは、国会図書館に置いたり、流通コードを付けてもらうためのお金の分も入っている」
という、しかし納得がいかず、
「それも普通なら、定価の中じゃないのか?」
と聞くと、黙り込んでしまった。
もう、この時点で、さすがに、
「詐欺だ」
と思ったが、
「でも、それなら、こっちは一銭も使わずに、相手に添削させればいいんだ」
と思い、
「ここから先は、こっちが利用してやれ」
と考えたのだった。
最初はやつらも、こっちの狙いが分かったのかどうか分からないが、決して相手の見積もりにのるようなことがなかったら、今度は相手がしびれを切らして。
「今までは私の裁量で、あなたの作品を、出版会議に挙げてきましたが、今回が最後になります」
というではないか。
要するに、
「今ここで、出版をしなげれば、あなたの作品が、協力出版として挙げることはできない」
と言い出したのだ。
こちらとしては、
「何言ってやがる。マウントを取ってきたな?」
と感じた。
そして、そのマウントは、完全な上から目線で、今まで、
「あなたの作品が素晴らしいから」
と言っていたものを、コロッとひっくり返して、
「俺のおかげで協力出版の提案ができる」
と言い出したわけで、
「お前の作品なんか、端にも棒にもかからん」
と言っているのと同じだというわけだ。
ここで、他の人だったら、この脅迫に屈するのかも知れない。最初から、迷っている人であれば、この言葉は大きいだろう。
しかし、最初から
「詐欺だ」
と思っている人間にとって、
「お前たちが、詐欺だということはこれでハッキリした。もう、関わらない方がいいな」
と思った瞬間なのだ。
しかも、やつらの言い分がメチャクチャなのだ。
こちらが、怒りを隠して冷静に、
「自分は、企画出版を目指して頑張ります」
と社交辞令で言ってやると、完全に化けの皮をはがして、
「企画出版なんて、100%ありえない。あるとすれば、芸能人か犯罪者のような知名度の高いひとだけだ」
と、
「いってはならないセリフ」
を口にしたのだった。
「まあ、あいつらのような詐欺集団ならキレたら、それくらいのことをいうわな」
と思ったので、こっちは、呆れを通り越して、気の毒になったので、そんな思いを残し、ぞのまま電話を切ったのだった。
それは、その会社との、断絶だったのだ。
この業界が、
「詐欺ではないか?」
ということで、問題になり始めたのが、それから半年後くらいだったか。ピークから1年後くらいのことであった。
本を出した人が、契約にあった、
「有名書店に一定期間並ぶ」
という約束が果たされていないということでの訴えだったが、もしこれが1件だけであれば何とかごまかせたかも知れないが、複数人が団体で訴訟を起こそうというのだから、話が変わってきた。
しかも、それが、社会問題になり、
「本を出したい」
という人が激減してきた。
要するに、自転車操業がいよいようまく回らなくなってきたのだ。
宣伝費、人件費、などは変わらないのに、売り上げが得れば、それは当然のことだろう。
しかも、詐欺で作者から搾取した金を不当に利益としているわけだから、当たり前の話だ。
そもそも、商売というのは、
「お金を使って作ったものが、売れて利益になるのだ」
というのが、基本なのである。
しかし、これはまったく逆である。
「素人の書いた本が売れるわけはない」
という前提に、さらに、
「本屋が売れない本を陳列してくれるわけはない」
つまり、
「陳列しても売れない」
ということの裏返しだ。
だから、出版社は、売上から利益を得るわけではなく、筆者から、定価に上積みした金額をそのまま利益にすることで、成り立っていたということだ。
そうでなければ、
「1,000円の本を1,000円で作っても売れなければ、紙屑だ。だから、あたかも売れるかのように言って、作者から、いくら引き出せるか?」
ということが問題なのだろう。
ひょっとすると、定価1,000というのも怪しいもの。本当は、500円くらいで本を作るくらいはできるのかも知れない。
これらのことは、冷静に考えれば、簡単に想像できそうなものだが、作者としては、
「ワンチャンあるか?」
というくらいに考えていて、
「本を出すのは、記念の意味で」
ということなら理解できないでもないが、それにしては、あまりにも、高額すぎるといえるのではないだろうか。
そういう意味で、
「もし、騙される人が最初からいなければ、こういう商売は成り立たないわけで、それだけ、俄か作家が多かった」
ということなのだろう。
日ごろから、
「作家になりたい」
ということで、ちゃんと業界のことや、作家になるためには、どうすればいいかなどということを意識していれば、あんな詐欺集団に騙されることなど、最初からないのではないだろうか。
それを思うと、
「あの詐欺集団の連中も、よく、あんなやり方で、詐欺だとバレないとでも思ったのだろうか?」
というのが疑問である。
共同出版を言われた瞬間、普通に算数ができる頭があって、経済学の基礎が分かっているのであれば、容易に、
「詐欺だ」
ということが分かってしかるべきだろう。
まさか、
「数百万円くらいは、詐欺であっても、問題ない」
などという人がいるわけはない。
そんな人がいるのであれば、お金を持って、自分で有名出版社に売り込みに行くなどするだろう。
そんな、新興宗教、カルト集団のような、
「いかにも怪しい」
ところに引っかかることもないはずだ。
だから、どうしても、この時に、本を出した人の気持ちが分からない。
実際に、自費出版社関係の出版社が、大手有名出版社よりも年間部数で越えた年もあったのだ。
確かに本屋に並ばないとはいえ、本を作り、流通コードを取得しているのだから、その発行部数は加算されることになる。
ということを考えると、
「俺たちの本は、本屋に並んでいるんだろうな」
と安心する人も多いことだろう。
そういう意味で、出版社も、
「騙せる」
と思ったのかも知れない。
「騙す方も騙す方あが、騙される方も騙される方」
と思うのは、筆者だけだろうか?
とにもかくにも、この出版社は、この後、作者からの訴えにより、企業としての信用がなくなり、結局破綻してしまうことになる。
それは当然であろう。
何と言っても、自転車操業でやってきたのだから、売り上げがない分、支払いもできず、破産宣告するしかないということだ。
その後、本を出した連中、一応被害者と言われている連中の本が無事に返ってくるということはなかった。
破産宣告をした以上、弁護士は会社側にあり、そうなると、出した本は、
「買い取り」
ということになる。
要するに、最後はどうなったか正直分からないが、被害者加害者、どちらも悲惨だったことに変わりはない。
「騙す方も騙される方も同罪」
と思っているので、気にすることもなく、興味のない状態でいると、どうやら、もう会社は完全になくなったようだ。
これが、3,4年くらいの出来事で、
「パッと出てきたかと思うと、いつの間にか消えていた」
というのが、興味のない人から見た時の印象ではないだろうか。
そのおかげというべきか、
「俄か作家」
と呼ばれる連中は、クモの子を散らすかのように皆どこかに行ってしまったようで、やっと、本来の、
「作家を目指す」
あるいは、純粋に、
「作品を書き続けたい」
という、継続できる人だけが残ったのは、いいことだった。
「あるべき姿に戻った」
というべきであろうか。
それを思うと、
「小説というものは、本当に甘いものではない」
ということであり。やはり、
「継続できる人間にしか、できないことだ」
と言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「自転車操業」
というものに、
「俄か」
のような、ハイエナ連中がくっつけば、このような詐欺商法が出てきたとしても、誰もすぐには気づくことはないだろう。
そして、
「騙す方も騙す方だが、騙される方も騙される方だ」
ということで、
「どちらも同罪ではないか?」
と考えるのも、無理もないことであろう。
そんなことを考えると、
「3,4年くらいのものでよかった」
というべきか、このブームも正直悪いところばかりでもなかったといえるのかも知れない。
それは、
「従来のように、本当に小説を書く人だけが残った」
ということである。
そして、怪しいところではあるが、もし似たような詐欺商法が出てきたとして、同じような社会問題になるほど、騙される人はいないと思うのは、作者の贔屓目で見るからであろうか?
確かに、詐欺というのはひどいものだが、だからと言って、
「火のないところに煙が立つ」
というわけもなく、
「きっと、また見たような詐欺が出てくるのだろう」
と思ったが、その時には、小説家界隈も、いろいろ変化しているだろうから、
「本を出したい」
ということでの募集というのは、ないといってもいいだろう。
今は、
「ペーパーレスの時代」
であり、ネット普及の時代だからである。
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