見一来

 両親の営む居酒屋「笑集」は京急川崎駅の隣の駅八丁畷はっちょうなわてから程近く、川崎市役所からは車で十分程の場所にある。

 川崎駅まで歩いても行ける距離だが、川崎駅周辺の賑やかさはない住宅街。奥の座敷を川崎市長の秘書室の役人は、前市長のお忍び場所として隠語で「招集部屋」と呼んでいた。


 この招集部屋を、前市長は店の裏口に車をつけ、他のお客には会わずに部屋の中に入れたため何かと便利に利用していた。

 トイレがこの裏口の横にあり、市長がトイレに行く際は一般のお客さんに「連れが今入っていますので」といい待機してもらい遭遇しない様にしていた。

 店のつくりは、引き戸の入り口を入ると、左に小上がり席と右にカウンター。正面に大きな水槽があり、その奥が個室の座敷になっている。

 前市長は部屋に入るなり中腰の姿勢で、苔で少し曇った水槽のガラス越しに、市民にばれない様に、少し楽し気な顔つきで客席を覗き込むのが習慣だった。


 水槽は、生け簀ではなく大きな金魚がいっぱい泳いでいる。この水槽の金魚は、夏のお祭りの金魚すくいの金魚が育った物で、既に三代目である。航と海がすくい上げてきた金魚がきっかけで今もその名残で続いている。

 店先には、二十周年のお祝いの時に、常連さんの有志が作ってくれた暖簾がかかっていた。夫婦の似顔絵が両サイドに、真ん中に「笑点」の様な文字で「笑集」と書かれ、金魚が所々に泳いでる絵柄の暖簾で、店の中の雰囲気が分かるような楽し気な暖簾だった。

 

 航の父の誠は、かつて多選禁止を訴える川崎市長擁立の市民団体に参加し、当選した前市長の私設後援会の事務局長の役を引き受けていた。世話人会の打ち合わせも笑集で行っていた。

 その関係で前市長は気兼ねなく笑集を利用していた。

 


 誠が、一人でカウンターに座っている常連の武さんに声をかける。

「後で航が来るんだけど、なんか行き詰ってるみたいだから、相談に乗ってくれないかな」

「高くついてもよければ、何でも相談乗るよ」

 右手でグラスを持ち上げ、了解のサインで苦笑交じりに答える。


 実は武さんは、父の誠とは前市長時代に後援会事務局長と市長室室長との関係で、その当時からの親密な関係であった。その後武さんは、現在の市長の時代に副市長となり現役を退いている。

 航は武さんの昔の事は知らず、常連の気さくな陽気なおじさんとしか思っていなかった。


 航が笑集にやってきた。いつも通りカウンターの隅の定位置に座った。

 既に何処かで飲んできた様子で、捨て台詞気味に誠に話しかける。

「やっぱり、親父に似て凡人だな。何も浮かばないよ」

「凡人の子は凡人ってか」

 厨房の中で手を休めることなく笑って答える。


 武さんがさりげなく航に問いかける。

「航君いくつになったの。三十になった……?」

「ピッタリ三十です」

 中腰の姿勢で母のさゆりからカウンター越しにレモンサワーを受け取りながら答える。

「三十になったんだ……。じゃ会社でもそれなりにに大変だね」

 思わせぶりに会話を振る。

「そうなんです。余計な仕事押し付けられるんですよ」

 少し愚痴めいた感じの口調で投げ返す。

「何も浮かばないって来た時言ってたけど。それの事」

「そうなんです。社内コンペの企画考えなくちゃいかなくなったんですよ」

「へえそうなんだ。どんな企画なの」

「知ってると思いますが、今度臨海部の跡地にでっかいホテル建てるんですよ。そのホテルのアイデアを市が募集してるんですけど、それに応募する前の社内コンペなんですよ」

「ホテルのアイデアと言っても幅広いけど、デザイン系」

「うちの会社はスーパーじゃないけど一応ゼネコンなんでそっち系です」

「航君設計畑だよね。結局設計視線でいくんでしょ」

「まあそうなんですけど……海から世界一のバーを作ればと言われ盛り上がったんですけどね……」

「世界一のバー。凄いいいと思うよ。川崎に世界一のバー。それ絶対いけるんじゃない」

「海から言われその日は死ぬほど盛り上がったんですが、スペースが大きい感じしかイメージ湧かないんですよね」

「そうなんだ」

「それで凡人を悟ったわけですよ」

 

 お替りのレモンサワーを母のさゆりにお願いし、ひと時が流れる。


 話を戻す様に話しかける。

「航君。世界一長いバーカウンターってどうなの」

「ググって見ましたけど、アメリカに120メートル位のバーカウンターがあるみたいです」

「へえそうなんだ」

「それ超える長い物作っても、どうなんですかね」

 全く興味ない表情を浮かべる。


 一息つき、ちょっと真剣な視線を航に投げかける。

「日本っぽい世界一が最高だよね」

「日本っぽいだけなら杉ですね。日本にしか生息してない木ですからね」

 少し茶化す感じで答えた。

「それ使えないの。たとえば杉で作った世界一長いバーカウンターとかさ」


「それ……。ううん」

 と少し俯き、伏し目がちに暫く思案していた。

 

 何かを思い付いたかの様に大興奮。

「それですよそれ。それ絶対いけます。目から鱗ですよ。調べてないから分からないけど、一本杉で作った一枚板のバーカウンターの世界記録はまだないと思います。絶対ギネス登録間違いないですよ!」

 全身興奮状態で、武さんの腰に手を回し喜びを表現する。

 

「自慢してもいいですか……大学の卒論が、日本木の香りと地域特性なんですよ。だから、詳しんですよ!」

 高笑いで興奮が収まらず。

 

 この夜、武さんとの話は益々エスカレートし、まるでもう現実に事が運んだが如く盛り上がった。

 

 一夜が明け、昨日の事は鮮明に覚えていた。

 毎度のことで酔っぱらって気が大きくなり、素面しらふの時には絶対しないような発言を繰り返し、武さんとの約束もあり、引き下がれなくなった事を後悔しながらいつものように落ち込む。

 

 

 締め切りも迫っているので、余裕をかましてはいられない航は、昨日母親から、海が今日は仕事が休みと聞いていたので、連絡し助っ人のお願いをした。


 ランチをおごる条件で時間を作ってもらったので、八丁畷駅で待ち合わせし、近くの馴染みの洋食屋さんで海が昔から大好きなカニクリームコロッケを食べさせ、開店前の笑集の奥の個室で相談に乗ってもらった。

「レストランでさっき言ってた、その世界一長い一本杉のカウンターってイメージ湧かないんだけど……」

 海が切り出す。

「えっと。まず杉の事詳しく話そうか……」

「詳しくはいいから企画書に入れたい内容に絞って、要点だけ整理して話して」

 持参した立ち上がり中のパソコンに目を落とし、畳み掛けるように少しビジネスモードの口調で問いかけた。

「企画書どこまでできてるの」

「何もできてません」

 少し申し訳なさそうな返事をする。

「わかった。じゃあ確認だけどこの企画書は社内コンペ用だよね。あくまでペーパーのみだよね。役員向けにプレゼンとかないよね」

「あくまでペーパーのみです。先生よろしくお願いします」

 海が少し苦笑しながら……。

「それだったらパワポじゃなくてエクセルで三枚位の感じで作ればいいんでしょ」

「そうだと思います」

 足を正座に組み替える仕草をして少しおちゃらけて見せた。

「まず、私が大体のフレーム作るから、その間にお兄ちゃんは使えそうな画像と参照言語をピックアップしといて」

「参照言語って……」

「一般には使わないか。ごめん。例えばその世界一長いアメリカのバーカウンターとかの、調べないとわからない情報の事」

「ググればいいやつね。了解。了解」

「お兄ちゃんが作った事にするんだから、あまり出来すぎたのじゃおかしいよね」

 ちょっとだけ見下した感じの顔つきで、航に視線を送った。

「そう。立派なやつでなくていいのでお願いします」


 航の調べた情報を海に提供しながら、暫くお互いの作業に専念した。


「大体できたけど。こんな感じでどう?」

 海が自身のパソコンを航のほうに向けた。

「すごいじゃん。やっぱり海すごいな。後はこの空白の所を埋めればいいんでしょ」

 パソコンの画面を指差しながら、期待通りの出来に満足していた。

「でも、このセンスいい企画書。俺が作ったと思うかな……?」

「後はお兄ちゃんらしくリメイクして下さい。もう少し内容詰める?」

「ここまで出来てれば、後は出来そうだからありがとう」

 ホッとした顔つきで海を見つめ感謝の笑顔を送った。

「じゃあ帰るね。後頑張ってね」

 パソコンを閉じバックにしまった。


 帰り際に、兄の人となりをよく知ってる海がポツリと靴を履きながら背中越しに問いかけた。

「この企画通らない方がお兄ちゃんにとって、本当はいいんじゃないの」

「平気だよ通らないから。本当に助かった。ありがとな」

 裏口から、店を後にする海を感謝と笑顔で見送った。

 

 その夜の「見来」は、小学生の夏休みのプール帰りに、店の奥の個室で座布団を布団代わりにして、いつも金魚を眺めながら気持ちよく昼寝をしている懐かしくも楽しい映像だった。

 

 

 それから数日後、本人にとって本意なのか不本意なのかは定かではないが、航の書いた企画が社内コンペにてなんと最優秀の社長賞に選ばれた。

 会社の正式企画として決定し、選考会へ向けての準備が始動した。

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