第2話 黒い指輪
相棒は、ご婦人の荷物を持ち、階段を上がり居間へと案内した。
居間では、羊皮紙の写本、さまざまな言語で書かれた専門書、何に使うのかも分からない実験器具、不気味な顔をしたアフリカの呪術人形、有名な判事の訃報を伝える新聞などが、乱雑で無秩序な様相を呈していた。
「申し訳ございません。二人で探し物をしていたもので、少々散らかっております。」
私は、盗人にでも入られたかのような部屋の状態をわびた。
「構いませんわ。」
依頼人は居間のありさまに少し困惑の表情を見せながら答えた。依頼人のご婦人は自身の名をメアリー・フィリモアと名乗った。
「長旅でお疲れでしょう、フィリモア夫人。お茶でも出したい所ですが、あいにく今晩は家主が不在なのです。ところで、フィリモア夫人。あなた、バースに行っていましたね。」
依頼人は驚嘆した 。
「どうして、それを。」
「簡単な事ですよ。あなたは大きな鞄を抱えている。そして動きやすいようにヒールのないブーツを履いている。どこかへ遠出をしていたのは明白です。」
それくらいは私にもわかった。しかし……。
「えーと、ホームズ。なぜバースという具体的な場所まで特定できたのだ。」
私が尋ねると、彼はふっと笑って言った。
「フィリモア夫人の上着だよ。」
「とても美しいお召し物だが……」
「注目すべきは横の裾部分だ。しっかりとした折り目がついている。長時間座ったままの姿勢でいたのだろう。その際、裾に折り目がついてしまったのだ。十分や二十分ではない。少なくとも二時間以上、列車の座席に座っていたのだろう。」
「なるほど。だが、観劇をしていたのかもしれない。」
「ワトスン君、君はオペラを見に行く際、こんな大きな鞄を持って行くのか。そして、さらなる決め手となったのは彼女の指だ。よく観察しなさい。」
「失礼でなければ、拝見させていただけますか。」
私はフィリモア夫人に断りを入れ、指を観察した。細く長い指がすらりと伸びている。私の武骨な指とは大違いだった。爪も奇麗に切り揃えられていた。
「ふむ、彼女はきれい好きで几帳面な性格だ。」
「ああ、恐らくその通りだろう。しかし、左手に付けている銀の指輪の表面がわずかに黒ずんでいる。」
「あら、いつの間に。」
フィリモア夫人も気づいていなかったらしい。
「昔から汚れていた可能性もあるが、見ての通りフィリモア夫人は髪のセットや爪の手入れも行き届いている。長年、指輪の汚れを放っておくとは考えにくい。恐らく指輪の汚れは、最近付いたものだ。」
「しかし、ホームズ。一体どうして。」
「汚れは黒ずんでいるし、よく見ると指輪全体がやや黄ばんでいる。これは恐らく硫化だ。銀は硫黄と化学反応を起こすと黒っぽく変色してしまう。フィリモア夫人は指輪をつけたまま、温泉に入ってしまったのだろう。ロンドンから汽車で二時間以上の温泉地と言えば、思い浮かぶのはバースしかない。」
「さすがですね、ホームズさん。その通りです。」
フィリモア夫人は驚嘆と感心の入り混じった声で言った。私も彼の特技を何度も見ているのだが、毎度感心させられてしまう。類まれな観察眼と長年の経験による推察により、一目でその人物の職業などを言い当ててしまうのだ。ある時は、靴を一目見ただけで相手が潜入中の警官だと見抜いた。手を見ただけでスリの女を見抜いたこともある。彼は職業柄自然と身につく能力だと話したが、私には到底まねできない。
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