ルーカスとワイン

 リラは、その言葉に胸が締め付けられるも、素直に従うことはできなかった。


 この状況に流されては最後、婚約を承諾したことになるだろう。

 婚約を承諾することは、つまり次期アクイラ国皇后になることを承諾したことも意味する。


 クライヴの様子から察するに、純粋にただ愛する女性と結婚したい、その想いはひしひしと伝わってきた。


 クライヴはリラが考えるほどの皇后としての責務を求めていないかもしれない。

 けれど、リラにとっては婚約イコール次期皇后なのだ。


 リラは負けん気が強く、人一倍責任感の強い性格がそれを結びつけ考え過ぎてしまう。

 ただ、この状況を嫌がることもできなかった。


 何ならもっとクライヴと抱き合っていたとさえ思ってしまう。

 ここまで、自分に尽くしてくれるクライヴに傾倒しないわけがなかった。


(もし、クライヴ様が一国の皇子という立場ではなく、ただの一貴族であれば否応無しに婚約を承諾したかしら。)


 けれども、現実は異なり、クライヴは皇族であり、次期国皇だ。

 背負うものが片田舎の伯爵令嬢であるリラとは身分が違い過ぎた。


 リラはどうすることもできず、必死に涙を堪えながら俯くしかなかった。

 もしかしたら、小刻みに震えていたかもしれない。

 そんなリラの異変に気づいたのか、クライヴはすっと手を離した。


「そろそろ、ルーカスたちの様子でも見に行くか。」


 リラは、その言葉に俯いたまま頷くと、クライヴはいつものようにリラをエスコートし、その場を後にした。




 サロンまでの長い廊下を歩く中、リラは、もう少しあのまま抱き合っていたかったと後ろ髪をひかれる思いだった。


 口付けまでできなくとも、どうしてその胸に身を委ね抱き返すことすらできなかったのだろう。


 そんな欲望が沸々と浮かび上がった。

 けれども、それすらも婚約の承諾と同義として受け取られるだろう。


 むしろ、そんなことをしたいのならは、さっさと婚約を承諾すればいいだけの話なのだ。

 そうれば、クライヴはいくらでもリラを抱きしめ甘やかし蕩けさせてくれるだろう。


 今、リラ自身に大きな決断を迫られていることは確かだ。

 ここで、承諾すれば自分の今までの人生から程遠い生活が待ち構えているだろう。


 次期皇后になるのだ、責任もそれ相応だ。

 もしかしら、今のような自由もなくなるかもしれない。

 あまりにも想像ができない未来に気押され、覚悟なんて、これぽっちもできやしなかった。


 それでも徐々に、クライヴに傾倒していく気持ちは気づいていた。

 リラも、またクライヴから離れることもできなくなりつつあった。


 リラはひとり物思いに耽りながら、気が付くとクライヴの腕を持つ手に力が籠った。




 ふたりがサロンに着くと、そんな甘酸っぱい余韻を欠片も残しはしないと言わんばかりの悲惨な状況が広がっていた。


 豪奢なサロンに似つかわしくなく、だらしなくタイを緩めてソファに寝転ぶルーカス、そして、ローテーブルには空いたワインボトルが二、三本、さらに、床にも何本かボトルが転がっていた。


 そんな状況にも関わらず、傍には、にこにこしながら、次のワインを準備するデイビッドの姿があった。


 リラは頭を抱え込んだ。


「おー。戻ったか。ダンスはどうだった。」


 ルーカスは、ふたりに気づくと寝そべったまま腕を上げた。

 それは、成人した貴族の令息、次期伯爵当主とは思えない無様な格好であった。

 そして、その場所があろうことか、皇族が所有する屋敷であり、何より許し難いのが、取引先であり一国の皇子に醜態を晒しながらタメ口をきいていることだった。


「お兄様!なんて端ない!」


 リラは怒りに震え思わず大きめの声がでてしまい、はっと口を抑えた。

 淑女として、このような場でも声張り上げることもまた恥の上塗りであった。


「あー。いいじゃないか。またには。なー。クライヴ。」


 ルーカスのその言葉に、リラは一瞬にして顔から血の気が引いた。

 あろうことか、皇子を呼び捨てなど、あってはならない。

 ふたりはいくらか親しい関係のようだが、それにしても不敬にもほどがある。


「す、すいません。兄が無礼を…。」


「ははは。楽しかったようで何よりだ。」


 慌ててクライヴに謝ろうとするも、クライヴは口を抑えて、笑うばかりで、この状況を愉しんでいるようだった。


「あー。ありがとうな。」


 そう言うと、ルーカスは満足そうな笑みを浮かべ今にも眠ってしまいそうに、うとうとしていた。

 リラは、クライヴが気にかけいないことに安堵したものの、どこかクライヴがこの状況を愉しんでいるようで腑に落ちなかった。


「すまない、リラ。以前、ルーカスが上物のワインだけで二日酔いになるまで呑んでみたいと話していたから…。まさか、タメ口を聞くほどまでに酔うとは、存分に楽しんでもらえたようだな。くくく。」


 クライヴはルーカスの醜態に笑いが堪えられないようだった。

 リラは、そんな説明を受けるも、この珍事が何ら問題のないことに納得ができず、頭を抱えて首を横に振った。


(どんだけ仲良しなんだ。)


 ルーカスは人一倍優秀な人間だが、このような悪ふざけも人一倍激しい人間でもあったため、幼い頃のリラはルーカスの奇抜な行動に振り回されることが度々あった。


 大人になり、それが良いように作用しているのかルーカスの新規事業の発想は多く他人とは異なるもののとても興味を惹くものが多かった。


「お前は真面目すぎる。」


 そんなルーカスにはよくこんなことを言われ、揶揄われたものだった。




 しかし、今回のこの状況は誰がどう考えてもやりすぎであった。

 リラは肝が冷え、心臓が凍るほどだった。


 呆然と立ち尽くすリラを他所にルーカスは今にも高いびきをかいて眠ってしまいそうだった。


「一応、客室はご準備してありますので、もしよろしければお泊まりになりますか。」


 デイビッドがリラににっこり問いかけた。

 おそらくこれもルーカスの算段だろう。


「いえ、ひきずってでも連れて帰らせていただきます。」


 リラは間髪入れずに、キッパリと答えた。

 その言葉にクライヴはまた吹き出すように笑った。


 もう馬鹿にされてもそんなことは関係なかった。

 今のリラはこれでもかというくらいに腹出したかったのだ。


 恐らく、ルーカスは、ここで泊まるのも計算しているのだろう。

 クライヴを待っているときに、サロンの調度品を物珍しそうに見ていたくらいだ。

 ここの客室にもさぞかし興味があるのだろう。


「皇宮のふかふかのベッドが使えるなんてまたとない好機!」


 ルーカスは、もしかしたらそんなことでも夢見ているかもしれない。


(誰がそんなことさせてなるものですか。)


(この酔っ払いは、何としてでも連れて帰って、一泡蒸してやらなくては。)


(屋敷の玄関ホールで、毛布もかけずに寝ているぐらいがお似合いですわ。)


 リラは、使用人に手伝ってもらい、ルーカスを馬車に放り込んだ。

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