リラの口紅

 食事を終え、サロンに場所を移すこととなった。

 クライヴはルーカスに今度は上物のワインを振る舞うとというのだ。


 リラは、そんなことよりも、いつ・どこで・どのようにクライヴとルーカスが知り合ったのか、すぐルーカスに問いただすために帰宅したいところだった。


 けれど、ワインに目がないルーカスは余程楽しみなのか、既に酔っ払っているのか浮き足立っていた。


(はあ…。)


 リラは溢れそうな溜息を飲み込んだ。

 曲がりなりにも取引先の申し出を無碍に断ることもできなかった。

 リラは席を立つと、仕方なくルーカスに続こうとすると、クライヴが扉の前でエスコートしようと当たり前のように待ち構えていた。



 この光景は『光景』としては多少は見慣れはしたのだが…。



 リラは、すっとクライヴの腕を自身の腕を通すと、クライブのその体温に、その薔薇の甘い香りをまざまざと感じ鼓動が早くなった。


 ふたりは暫く先導するルーカスとデイビッドの後をついて歩いた。


 リラは、チラリッと隣を歩くクライヴを垣間見るも、ひとり悠々と遠くを見据えて優雅に歩いていた。

 毎度、自分だけが妙に意識していることがこれでもかと悔しくて恥ずかしかった。


「では、ルーカス。後程、感想を聞かせてくれ。デイビッド、後は頼んだぞ。」


「はい、お任せください。」


 サロンの前に着くと、クライヴはルーカスとデイビッドに挨拶した。

 ルーカスもデイビッドも理解しているようだが、リラは何のことかさっぱり分からず、クライヴとルーカスの顔を交互に見入るも、クライヴは何も答える様子もなく、ルーカスは意地悪く笑うニヤニヤするだけだった。


 なんだか頭痛がしそうなリラを他所に、クライヴは屋敷の奥へと案内した。


「こっちだ。」


 ふたりは、そのまま長い廊下を進み屋敷の最奥だろうか、ひときは大きく重厚な扉の前で足を止めた。

 扉の前には執事が待ち構えており、クライヴの目配せで、その大きな扉は開かれた。


 そこは舞踏会場だった。


 その天井は高く、豪華がシャンデリアが輝いていた。

 床はもちろん大理石で、ピカピカに磨き上げられ鏡のようにふたりの姿が映し出されていた。

 柱や天井は美しい装飾がほどこされており、さすが皇族所有だ。


 成人の宴で使用されたアベリアの間からすると、小さくはなるが、それでも数十名は招待できるほどの立派な会場であった。


 そして、何よりリラを驚かせたのは、既にヴァイオリン・ヴィオラ・チェロの弦楽三重奏の奏者が既に待ち構えているではないか。


 リラはあまりのことに言葉を失った。

 こんな素晴らしいものを用意しているなんて誰が想像できるだろうか。


「もし、よろしければ踊っていただけるだろうか。」


 呆気にとられ立ち尽くすリラを他所に、クライヴは仰々しくリラに手を差し伸べて紳士の礼をした。



(こんな誘い方はずるい…。)



 ただでさえ、誰もが惹かれる美貌の持ち主に、自分のためだけにこのようなロマンチックな演出をするなんて…誰が断れるだろうか。


 リラは頬を染め上げ、一国の皇女にでもなった気分だった。


「喜んで。」


 リラは嬉しいものの、それを素直に表現することも恥ずかしく、伏目がちなりながら、スカートを摘んで一礼すると、その手を取った。


 ふたりの挨拶を合図に美しいワルツが流れ出し、クライヴがすっとリラの腰に手を回した。


 なぜだろう、心なしかふたりの距離が以前より踊ったときよりも近い気がした。

 それともリラがクライヴを意識し過ぎるあまりそう感じるのか。


 リラは、誰もいないふたりだけの舞踏会上というのに、以前一緒に踊ったときよりも遥かに緊張した。


「今日は何曲でも踊ってほしい。」


 リラはその言葉にゾクリッとした。


 クライヴは、その情欲に満ちた紅い瞳でリラを見つめ、触れる手に力が籠った。

 決して力強いわけではなく、壊れものを扱うようにとても優しいのだが、決して放すことはないような力強さを感じた。


「本当にドレスがよく似合っている。装飾品も準備していたのだが、仕立てが間に合わなかったのが悔やまれる。」


 クライヴは少し残念そうに眉を顰めくも、リラは慌てふためいた。


「こんな豪奢なドレスに加えて、装飾品ですか?いただけません!」


 リラが見たこともない贅沢なドレスを軽々しく用意するくらいだ。

 装飾品と軽々しくいうが、とても高価なものに違いなかった。


 見たこともないサイズのダイヤだったり、貴重な宝石がふんだん使われているのではないかと想像してしまう。


 リラとクライヴは婚約者でもなんでもない。

 それどころか、リラはこれから婚約を断ろうとしているのだ。

 そんなもの貰って良いはずがなかった。


「そういうと思ってルーカスに渡したんだ。」


 クライヴの言葉にリラは妙に納得した。

 ルーカスなら何だかんだ雲に巻いてリラにゴリ押しできる唯一の人物と言ってもいいだろう。

 こういうリラの性格もリラの趣向もおそらくルーカスから筒抜けなのだろう。


(もう。お兄様、本当に帰ったらとっちめなくては…。)


「はは。ルーカスを怒らないでくれ。俺が無理にルーカスに頼んだんだ。それにリラの不満なら、しっかり俺に聞かせてほしい…。」


 リラの表情を察したのかクライヴは苦笑し、そう付け加えた。

 そんな甘い声で言われては何も言い返せず、リラもまた眉を顰めた。


 ドレスに不満などない、とても満足していて、正直に嬉しい。

 だが、婚約者でもない、その関係にリラは気後れしてしまうのだった。


「あ、あの、ドレスは、そのとても気に入っております。その…買い取らせていただけないでしょうか。」


 リラは恐る恐る尋ねた。

 今から婚約を断ろうとしている自分が、こんな高価なものを受け取ることは、やはりできなかった。


 リラのポケットマネーで支払える金額かはわからないが、それでもそう言わざるおえなかった。


「まさか。お金なんかいらないよ。美しいリラを愛でたかっただけだ。自己満だと思ってくれ。」


 クライヴはリラの申し出を鼻で笑うと、その手に力が籠った。

 クライヴはあまり表情を崩さないためわかりづらいが、少し苛立ったのだろう。


「では、せめて、お礼を…。」


 リラはバツが悪くなり咄嗟に口にした。

 その瞬間、お礼と言えば『あれ』のことになるのだろうかと脳裏を過った。


「お礼か…。」


 クライヴは溜息を零すと儚く笑った。


「婚約に承諾してもらいたいが、それはリラが快諾してくれないと意味がないからな…。」


 その返答はリラにとって意外だった。

 あんなに強引に何度も婚約の申し出をしておきながら、この場でそのカードを切らず、リラの気持ちを優先するのか、と驚かされた。


「ただリラが断っても断っても何度でも求婚するつもりだ。」


 その言葉を聞き、リラは心の中で乾いた笑いをした。

 クライヴは、やはり強引であった。


 ルーカスの入れ知恵か、クライヴからするとリラが断ることは既に想定されているらしい。


 そして、いくら断っても無駄なようだ。

 しかし、これでは、断る前から断らせてもらえないなど、何とも傲慢なのだろう。

 結局、承諾しか返事をできないらしい。


 リラは眉間に皺を寄せ不満な表情を露わにしていると、クライヴは儚げな笑いを浮かべ、足を止めた。


「自分でも強引だとは思っているが、誰にも取られたくないんだ。」


 そういうと、リラを抱きしめた。




 リラを手放すまいときつく、


 けれども、壊れものを扱うように優しく、


 そして、蕩かすように甘く抱きしめ、


 ふたりは次第に同じ香りに染まっていった。




 リラはゾクリとした。




 これほどまでに愛を向けられたことが今までの人生であっただろうか。


 これからの人生でこんなにも情熱的に誰かに愛されることなどあるだろうか。


 本当にこの申し出を断っていいのだろうか。




 リラの心は一気に揺らいだ。


 こんな素敵な舞踏会場に奏者を用意するなんて、女の子なら誰でも憧れるだろう。

 リラは先ほど飲んだワインのせいもあり、このままクライヴに絆されるのも悪くないと思えてしまった。


「お礼なら、口付けをしてほしい…。」


 クライヴは、ぼそっと呟いた。

 リラは驚きクライヴを潤んだ青緑色の瞳で見つめた。


「はは。こんな強引では嫌がられてしまうかな。リラに嫌われたくはないんだ。だが、自制も難しくて。」


 そう言うと、クライヴは、リラの首筋に顔を埋めて、もう一層強くリラを抱きしめた。


 今度は少し痛いほどだった。




 こんなクライヴの悲痛な表情などリラは初めて見た。

 いつも自信に溢れ堂々としているのに、ただの片田舎の伯爵令嬢に過ぎない自分に嫌われることを恐れるなんて信じがたかった。


 リラはクライヴが、本当に自分を求め、慈しんでいることを痛感した。


 リラは、蕩けそうな理性を振り絞りクライヴの前に手を置き何とか離れようと踠くが、びくともしなかった。


「クライヴ様。これでは、お召し物に、その、口紅がついてしまいます…。」


「構わない。それなら、そこに口付けしよう。」


 クライヴは、そう言うとリラの額に口付けをした。

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