第269話 BAR「沼」
「お、おじゃましまーす」
恐る恐る扉を開けて、中に入るとそこは外観から想像していたよりもずっと高級そうなお店だった。
狭いが、格式ある老舗ホテルにあるようなバーラウンジを思わせ、古さと豪華さがうまく調和した居心地の良さそうな空間が広がっていた。
店内には客の姿は無く、カウンターの奥に白髪頭のバーテンダーが居て、部屋の片隅にあるピアノの傍には美しい女性がそれに持たれるように立っていた。
太腿が眩しい、スリットが入った真っ赤なドレスを着て、それに負けないような艶やかな紅の唇が印象的だった。
ボォウ・ヤガーが持っていた鞄はどこにも見当たらない。
「さあ、そのような場所に立っていないで、こちらにいらっしゃい」
ピアノの傍にいた女性がこちらに歩いて来て、俺の腕を取ると、バーテンダーがいるカウンターの方に誘ってきた。
何かいい香りが、髪の生え際のあたりから漂ってきて、つい大きく開いた胸元に目が向いてしまう。
あれ?
俺、ひょっとしてこの女の人に興味湧いてる?
その女性は俺をバーテンダーの前の席に座らせると自身もその隣の席に着いた。
「何にしますか? 」
バーテンダーの低くて耳馴染みのいい声がとても心地良かった。
「ああ、ええと……はじめて来たので、その……、何を頼んだらいいか」
「まだずいぶんとお若いようですが、この店をどこでお知りになられたのです?」
やばい。なんて答えたらいいんだろう。
この人たちとボォウ・ヤガーの関係はまだわからないし、今のところ、俺を唯の客と思っているようだけど、それすらも演技の可能性もあるし、わからない。
「いや、なんとなく通りを歩いていたら、この店の扉が気になって、それでただ入って見ただけというか。ごめんなさい。冷やかしとかじゃなくて、俺、こう見えてもお酒が好きで、新しい店を開拓するのが趣味なんですよ」
俺のしどろもどろの答えに、バーテンダーと女性は顔を見合わせた。
何か変なことを言ったかなと不安になった俺だったが、その様子を見て、女性がくすりと笑った。
そして女性は目くばせをし、それに応じたバーテンダーが背後の棚から琥珀色の液体の入った瓶を取り出した。
小さなグラスにそれを注ぎ、俺のまえにそっと置いた。
グラスの注がれた液体からは、決して嫌ではない感じの燻されたような香りが漂ってきている。
「初めてのお客さんに出す最初の一杯は、店からの奢りです。まずはそれをどうぞ。グラスに注がれているのは、当店自慢の最高のヴィンテージのうちの一本です」
どうしよう。
なんか、逃げづらい雰囲気だ。
でっかい婆さんはいなかったけど、店名のとおり、沼地に入り込んでしまったみたいに椅子から立ち上がりにくい雰囲気だ。
気が付くとどこからか音楽のようなものが流れてきていて、一層ムーディな雰囲気が醸し出されている。
薄暗い店内に妖しく揺らめく明かりが幻想的で、思わず外の世界のことを忘れてしまいそうになる。
「さあ、どうぞ。飲んでみてください」
この店がボォウ・ヤガーと深く関わりがあるなら、何か、毒のようなものが入っている可能性もある。
だが、ここはこれに口を付けずには済まなそうな状況だ。
バーテンダーと女性の視線が俺の方に注がれている。
それにしても妙だった。
あれほど警戒心に満ちていた俺の心が、店内に足を踏み入れた瞬間にほぐれてしまっていて、この見ず知らずの二人に対する注意力が散漫になっていた。
そのことに気がついた俺は、慌ててバーテンダーたちの気の質を探ってみたが、何も感じることができなかった。
気配が無い。
目を閉じれば、そもそもこの場に二人がいるのかさえ分からなくなってしまいそうな、そんな感じだった。
気を探られたのを察したのかバーテンダーがにっこりと笑みを浮かべた。
「お客様、この店の中では相手のことを探ろうなどとするのは野暮。皆、互いの素性を伏せて、交流を愉しむ神々のための社交場なのです。教えておきますが、この店の中には特殊な結界が張り巡らされていて、そうした行為の一切ができないようになっています。そして、この店にはそもそも神以外の存在が足を踏み入れることがないように、人避けの結界も施されていて、ここに足を踏み入れた時点でその者が神だと分かってしまうのですよ。よろしいですか? この場所では、語る言葉だけが真実。そういうルールなのです。あなたが何者であっても構いませんが、そのタブーを侵すことはマナー違反です。さあ、まずはその一杯を楽しんで、束の間の会話を楽しみましょう。私は、あなたがたとえ何者であっても歓迎しますよ」
結界……。
迂闊にもほどが過ぎた。
客が神だけというなら、この二人も当然に神なのだろう。
この異世界にどれだけの数の神が存在しているかわからないが、あのボォウ・ヤガーたちの企みには複数の神が加担している可能性が出てきた。
もしその推測が正しければ、当然に、この二人も敵ということになる。
どうする?
一戦交えてみるか、それとももう少し様子を見るべきだろうか。
「……せっかくのご厚意なんで、いただきます」
様子を見ることにした。
俺は意を決して、グラスを手に取り、それを口に含む。
力強く、豊かで、芳醇な香りが鼻腔に広がっていく。
味は複雑だが、どこか柔らかさを感じる味わいで、蒸留酒特有の焼けるような喉奥の心地よさが広がっていく。
「……うまい」
素直に言葉が出た。
たぶん、この異世界に来てから飲んだ酒の中で一番うまいと感じたと思う。
洗練されていて、かつどこか懐かしい感じがするのはなんでだろう。
こんないい酒、飲んだことなんかなかったのに……。
「はは、それは良かった。バーテンダー冥利に尽きます」
バーテンダーはその白い眉の尻を下げて、ほっとしたように笑った。
どうなんだろう。
こうしてみる限り、悪い人たちには見えないんだけど……。
あとサービスで出されたお酒が上等すぎて、ふと支払いのこととかが気になってきてしまった。
「あ、あの、俺、ここが神さまたちのためのお店だって知らなくて、その……人間のお金しか持ってないんですけど、支払いはどんな感じになるんでしょうか。有り金もそんなにあるわけじゃなくて、こんな良いお酒を出すお店で無銭飲食をするわけにはいかないし、その……ごめんなさい」
俺はコマンド≪どうぐ≫から、ゼーフェルト王国で流通している通貨が入った革袋を取り出し、カウンターに置いた。
革袋の口を開いて、二人に見せる。
学生服の売却代金の残りと暇つぶしにした人助けの謝礼で得たお金だ。
「……あなた、本当に変わったお客さんね。詮索はしないのがここの決まりだけど、なんだか妙に気になってきてしまったわ。そして何より、今の話からすると無一文と言う事よね? あなたひょっとしてお客じゃなくて、仕事を斡旋してほしくてここに来たのかしら?」
「いや、だから一応、このぐらいは持ち合わせが……」
俺は金が入った革袋を指さしたが、女性はがっくりと肩を落とし、ため息をついた。
「あのね……。こんなものは私たち神の間では何の価値も持たないの。銀河連盟などの各種団体が共同で発行しているクレジット通貨か、人間の魂……、持ってないの?」
「持ってないっす」
「あなた、それでも神の端くれなの? 今までどうやって生きてきたの?」
女性は目を見開き、本当に驚いた顔をしている。
どうやら俺が言っていることは相当に常識外れであるらしい。
ちなみに俺は唯の人間で、神の端くれとかではないんだが、この様子では言っても信じてもらえないんだろう。
「あの……、さっき仕事の斡旋とか言ってたけど、あれはどういう意味なんですか」
「それも知らないってことは、本当に何しに来たの、あなたは……。まあ、いいわ。説明してあげる。このBAR「沼」は、神々の社交場であると同時に、困窮した神の駆け込み寺のような場所でもあるのよ。ニーベラントの支配神にターニヤがなってから、この惑星は神にとって、とても暮らしづらくなってしまった。≪人界神≫メテウスや女神リーザの時代に任されていた仕事をターニヤお手製の機神≪
あの駄女神め、本当にろくなことしてないな。
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