第248話 アビス・コリドール

思わず尻込みしてしまいそうになる≪魔界の神≫グラヴァクの圧倒的な存在感を前にして、俺がこうして強気に出ていられるのには、ある予想に基づく勝算のようなものがあったからだった。


グラヴァクは、俺たちに『実体を失い、こうして石くれにしがみ付いてようやく消滅を免れている』と語っていた。


あの言葉が嘘偽うそいつわりでないならば、邪眼刀じゃがんとうに宿っていたジブ・ニグゥラに近い状態であるということで、あの竜を象った石像を破壊さえしてしまえば、その存在を保てなくなり、消滅するのではないかと踏んだのだ。


終末の日に現れた、あのふたつの超越的存在の片割れがグラヴァクだったなら、そう簡単にはいかないかもしれないが、それを確かめる意味でも、この俺の無法なふるまいは有効なものだと考えたのだ。


わざと結界内に配置された石を乱したり、壊したりしたのはグラヴァクがどういう反応をするのか見る目的もあった。


俺の舐めた態度に腹を立てて本性を現すならそれも良しと考えていたが、グラヴァクは予想に反して、されるがままだった。

俺の滅茶苦茶な行動に、本気で困っているようであったし、それに対して抗う事さえできないようであった。


『コゴロウ! よくぞ、戻って参った。お前さえおれば、もはやこの小僧の好きにはさせぬ。大幅に計画が狂ってしまうが、こうなっては手段を選んではおれぬ。さあ、今こそ、我が授けた奥の手を使う時だ』


グラヴァクの声に安堵の響きがあった。

奥の手というのは、それほどまでにこの状況を覆し得るものなのか。

俺は警戒を強めた。


「おい、妙な真似をしたらこの石像を壊すって言ったよね」


「やってみるがいい。だが、無駄だぞ。グラヴァク様が宿る依り代がこの場にもうひとつ、すでにあるのだからな」


どこかで何か作業していたような格好の魔王は、首にかけていた汗拭き用の布を外して床に置くと、にわかにその全身を黒々とした魔竜の特徴がある姿に変貌させた。

肉体の膨張は起きておらず、コゴロウの風貌を残したままの変化だった。

皮膚が黒くなり、表皮が鱗に変貌する。


「待たれよ。コゴロウ殿!早まるでない」


いよいよ何かが起こるのかと緊張が高まってきたところで、いきなりマルフレーサが縄で両腕が拘束状態の何者かを連れて、部屋に入ってきた。


「マルフレーサ、今までどこにいたの? その緑の顔をしたおっさんは誰?」


マルフレーサが無理矢理押すような形で連れてきた人物は、以前、幻術師トゥルゾという魔王勢力の秘密要塞にいた魔族と似たような特徴をしており、全身が緑色の皮膚だった。頭部の毛は薄く、ところどころに妙な突起があり、人間とはやはり一目瞭然に違う。

その魔族は、虚ろな目で口を半開きにしたまま、おぼつかない足取りでマルフレーサの為すがままになっている。


マルフレーサに以前聞いた話では、魔族とは、かつて魔界に生息していた固有種で、いわば魔界人ともいえるものらしい。

今は滅びに瀕し、その存在はかなり珍しいという話だった。

魔王のスキルによって魔物と人間が合成された魔人とはまったく別物であるらしい。


「この魔族の名は、ゴンゾ。その竜の石像の身の回りの世話をしている付き人のような役目の者だったが、城の中をあれこれ嗅ぎまわっている私のことが目障りだったのだろう。いきなり寝込みを襲ってきたので、逆に捕えて、色々と尋問して見たのだが、するとどうだろう。思いもよらない昔話を聞くことができたではないか。コゴロウ殿、おぬしは色々と騙されているぞ。そして、良いように利用されている」


「私が騙されているだと? どういうことだ、マルフレーサ」


竜化が止まり、むしろ少し人の姿に戻った。


『コゴロウよ。そのような女の戯言など聞く必要はない。≪神魔合一しんまごういつの邪法≫をさっさと発動させるのだ!』


「グラヴァク神よ。慌てたくなる気持ちもわかるが、ここは私の話に少し付き合ってもらおう。このゴンゾをけしかけ、私を殺すように仕向けたようだが、藪蛇やぶへびであったな」


マルフレーサは、勝ち誇ったような顔でそう言い放ち、ゴンゾの背を蹴って、グラヴァクの方に押しやった。


「……コゴロウ殿。貴方の愛したディアナ、そしてわが友にして≪世界を救う者たち≫のリーダーだった勇者マーティンを殺すように仕組んだのは、パウル四世ではない。そこのグラヴァクだよ」


「そんな馬鹿な! そんなはずはない。私がグラヴァク様と出会ったのは、ディアナを失った後だ。失意に暮れ、絶望に打ちひしがれたこの私を、グラヴァク様が励まし、そして立ち上がるための力を貸してくださったのだ」


「それだけではないぞ。お前と合体したという、その魔竜。それすらもグラヴァクが差し向けた奴の配下であったそうではないか。お前を一番近くで監視し、その命が不意に失われることが無いように、相棒として常にそばについてお前を守っていたらしい。グラヴァクは、お前がこの世界にやって来てからすぐに、お前に強い興味を持っていたようだ。異世界勇者としての類まれなる力と肉体。そしてなにやらお前の≪職業クラス≫の持つ稀有な力に目を付けていたという話だ。すべてはそれを我がものとするため。最終的な目的まではわからなかったが、そのゴンゾがそのように白状したぞ」


そうか、マルフレーサが俺と一緒に脱出しなかったのは、魔王勢力について色々と調べるためだったのか。

世界の破滅をみすみすと受け入れる気はないと言っていたし、彼女なりの目的があったのだろう。


「……グラヴァク様。今のマルフレーサの話は本当なのですか? 」


『馬鹿を言うな。この我がどうして、人間どもの争いなどに関与しなくてはならんのだ。すべてはその性悪女の小賢しい奸計よ。コゴロウ、我とその女のどちらが信じるに足りるか、わからぬお前ではあるまい。さあ、はやく≪神魔合一の邪法≫を!』


「ゼーフェルト王国と魔王勢力の和睦が成れば、色々と不都合だったのだろう。そして、コゴロウ殿の復讐心を和らげてしまうディアナの存在が邪魔……」


『五月蠅い!黙れ!ヒヨウマ、この女を黙らせろ!』


グラヴァクが苛立ったように叫ぶと、天井の石材の隙間からすすと一緒に何かがぬるりと這い出てきて、マルフレーサ目掛けてとびかかって来た。

スライムのような不定形の状態から、小さい人間のようになって、両手の指を鋭い針のように尖らせている。

大きさは、学校の黒板に使うチョークほどのサイズで、埴輪のようなふざけた見た目の割に、身のこなしはけっこう速い。


マルフレーサは、まったく気が付いた様子はなく、対応が遅れている。


だが、ヒヨウマの爪がマルフレーサの美しい顔に届くまさにその直前に、俺が急いで駆けつけ代わりにキャッチした。

すごく速いけど、今の俺が見逃すほどではない。


「女の人の顔になにすんだ、バカ」


手がチクッとした気がしたが、そのまま構わず≪理力りりょく≫を込め、力一杯に握りつぶす。

手の中で、『ぐへっ』という不気味な声がして、ヒヨウマは飛散し、まもなく消えた。


『ヒヨウマ! 馬鹿な、出来損ないとはいえ、曲がりなりにも神の端くれだぞ。なぜ、人間ごときに……。おのれ、他に近くにいる眷属はおらんのか……。使えぬやつらめ』


グラヴァクの愕然とした声が虚しく聞こえてくる。

どうやら、今のヒヨウマが切り札だったらしい。


突然、コゴロウがグラヴァクが宿る竜の石像に歩き出した。

そして竜の石像の両前足を掴んだ。


『コゴロウッ! 何をする。やめぬか……』


「グラヴァク様……。正直にお答えください。ディアナを殺すように命じたというのは本当なのですか?」


右の前足にひびが入る。


『お、畏れ多いぞ。放さぬか、放せ!愚か者が……』


「今、マルフレーサを亡き者にしようとしたように、ディアナも殺したのかと聞いている。脅しではないぞ。語れ、真実を!ディアナを殺すように指示したのはお前か!」


両前足部分が折れる。


「おい、コゴロウさん!待ってくれ。グラヴァク様に何かあったら、俺たちは地球に帰れなくなってしまう。お願いだ。もっと、穏便に」


亀倉がなだめようと駆け寄ったが、コゴロウの爬虫類のようになった目には憎悪の火が燈り、もはや周りが見えていないようだった。


コゴロウにとって、ディアナという人はどんな存在だったのかな。


ついに両足部分が砕かれ、その竜の首にコゴロウの手が伸びる。

その半ば魔竜人化した大きな手ならば、もう一握りで石像を破壊してしまえそうだった。


『……人間どもが……こちらが下手に出ておれば、図に乗りおって……。我とても魔界の神と畏れられてきた存在。下等な人間などにこのような屈辱を味わわされてはもはや許すことはできん。死よりももっと恐ろしい目に合わせねば、溜飲が下がらぬわ。……そういえば、お前らは、揃いも揃って地球に帰りたがっていたな。いいだろう。全員まとめて、地球に送り込んでやる。そのぐらいの力は、まだ残っているぞ』


その時、突然、室内全体が揺れ、そして俺たちの足元に奈落のような深い闇が広がってきた。


そして、その部屋にいた俺以外の全員の足が、まるで底なし沼に入り込んでしまったかのようにずぶずぶと、少しずつ沈み込んできた。


『貴様らが悪いのだぞ。≪奈落神の次元回廊アビス・コリドール≫を抜け、この我ですら、想像だにできぬ最悪の現実の到来に打ち震えるがいい』


地球に送り込む?

なんで、この期に及んで、亀倉たちの希望を叶えようとするんだ?


だが、奴の言葉から浮かぶこれから起こるであろうことは、どう考えても不吉な感じしかしない。


死よりももっと恐ろしい?

想像だにできぬ最悪の現実の到来っていったい何を意味しているんだ。

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