第215話 危険な恋

幸い、ここはベッドの上。

このまま押し倒してしまおうかという考えも浮かんできたのだが……。


「……どうしたの?」


怪訝そうな顔でヴィレミーナが尋ねた。


「いや、やっぱりちょっと卑怯かなって」


配偶者がいる女性との不倫。

既婚者とこういう関係になるのは初めてではない。


バンゲロ村でサンネちゃんのお母さんに夜這いされたことがあったけど、あの時はまだ経験が今よりは浅く、受け身のまま、欲望に流されてしまった。

だけど、今はアルコールも入っていないし、理性だってしっかり働いている。


道ならぬ危険な恋かもしれないけど、これから先、ヴィレミーナと真剣に付き合っていきたいなら、やはり夫であるアーレントの許しを乞うべきだと思ったのだ。


自分のヴィレミーナへの気持ちを真摯に伝えたところで、「はい、そうですか」とはならないことはわかっている。


修羅場になるのは間違いないし、この組織にもいられなくなることだろう。


だが、それでも一宿一飯どころではない恩義あるアーレントの知らない場所でこそこそと逢瀬を重ねるのは何か違うと思ったのだ。


滅茶苦茶なことを言ってることは自覚している。

アーレントに義理立てするなら、その妻ヴィレミーナは最初から手を出してはいけない相手だったのだ。

でも、そうした倫理とか社会の常識のような物を忘れさせるほどに彼女は魅力的だった。


土下座をしてもいい。最悪、指の一本二本差し出さなければならないかもしれないが、それでもヴィレミーナが今の俺には必要だった。


俺はその胸の内を説明し、ヴィレミーナから身を離したのだが、彼女はため息を一つ吐いて微笑むと逆に俺をベッドに押し倒してきた。


「ちょ……ちょっと、俺の話聞いてた?」


「ふふっ、聞いてたわよ。案外、真面目なところもあるのね。大丈夫、アーレントのことなら、気にしないでいいわ」


「気にしないでって……」


ヴィレミーナは強引にキスで俺の言葉を遮ると服を自ら脱ぎ、覆いかぶさってきた。




結局、その夜、俺とヴィレミーナは一線を越えてしまった。


男という生き物がそういう風に作られているのか、俺だけがそうであるのかはわからないけど、ヴィレミーナの柔らかな体を抱きしめていると、不思議と心が落ち着いて、酒に頼らなくても夜、ぐっすりと眠れた。


身体を重ね合わせ、ふたりだけの世界に没頭していると、悩みも不安もいつの間にか消え、心地よい疲労と充足感が心を癒してくれるのだ。



俺はますますヴィレミーナの魅力にのめり込んでいき、日を追うごとにいつしか完全に依存症のようになっていた。


一日中、頭の中は彼女のことばかり。

こんなことは今までの恋愛ではなかったことだ。


そして、場所を問わずに彼女を求めるようになって、ついに大失敗をしてしまうことになる。


「やめて。ここでは駄目よ……」


そんな感じで、いつもうまくあしらわれているのだが、その日はヴィレミーナもどこかそういう気分だったのか、ボスのアーレントがいる時間帯のアジトの別の部屋でついつい行為を始めてしまったのだ。

アーレントはヴィレミーナの亭主でもあり、歳の差は孫ほども離れている。


俺が衣食の世話になっているアーレントの若妻とこんな関係になってしまったことに後ろめたさはあったが、それを顧みさせなくなるほどにヴィレミーナは魅力的だったのだ。


男の本能を刺激する扇情的な体つきに、どこかエキゾチックな美貌。

しかも、氷のようなクールさの裏にある、情熱的なところがなんとも言えないほどに素敵で、構わずにはいられなくなる。


本能のままに互いの服を脱がせ、声だけは大きくならないように注意しあって目合まぐわっていたのだが、背後のドアがいきなり開いて、俺の時間とハートは凍った。


「き、貴様ら……、何をしておるのだ」


そこに立っていたのは杖を振り上げ、青筋を立てたアーレントだった。

薄くなった白髪を後ろにオールバックのようにして、いつものガウン姿だった。

痩せた体を怒りで震わせ、鬼の形相で、俺を睨んでいる。


「あっ、その、ごめんなさい。もうちょっと、待ってもらってもいいですか?あとちょっとなんで……」


「馬鹿者っ!!! 待てるわけがあるか! 一目見た時から、危険な小僧だと思っていたが、やはり……、おのれぇ……」


「待って、お父様。ユウヤと私は真剣に愛し合ってるの。お願い、許して」


俺から離れたヴィレミーナが、アーレントをなだめようと胸を隠して、訴えかける。


えっ? お父さま……?


俺はとりあえず、近くに置いてあった円形のトレイで股間で隠す。


「駄目だ。ギャンブラーなどというやくざ者には、もう二度とお前は任せぬ。死んだ恋人のルカスのことを思い出せ。ギャンブルと喧嘩に明け暮れ、挙句の果てが路上での不審死だ。組織間の抗争に巻き込まれた可能性もあるが、私たちの稼業に関わるような人間には碌な未来は待っていない。たった一人の娘であるお前には、真っ当な相手と結婚してほしいのだ。そのユウヤなどよりもっと家柄が良く、堅気のまじめな男をな」


「でも、お父様!ユウヤはうちの組織には欠かせない人間でしょ。私もこの世界にもうどっぷりとつかっているし、今さら日の当たる世界で生きていこうなんて思わないわ。私はユウヤに夢中なの。こんな場面を目撃されて、申し開きもできないけど、お願い。私たち二人の仲を認めてください。お願いします」


「いいから、まずは服を着ろ。そして、とにかくその男は駄目だ!こいつの目からは絶望しか感じない。明日なき世界に身を置き、根なし草のその日暮らし。やがて破滅していくたぐいの人間だ。それに私の妻だと言っておいたのに、お前に手を出す不忠不義理の者でもある。この日のことを危惧して、組織の他の者たちにもお前を私の娘ではなく、妻であるということにせよと厳命していたのだ」


「お、お義父とうさん、そんな事言わないで、どうかこの通り。娘さんをぼくにください!」


俺はトレイを手放し、アーレントに土下座した。


「お義父さんだとぉ? どの口が言うか、この間男め! そこに直れ。そのそっ首叩っ切ってやる」


どうやら仕込み杖だったらしく、アーレントはそれの抜き身掲げ、上段に構えた。


「私の大事な娘をたぶらかす害虫め! 成敗してくれる」


アーレントは本気だった。

本気で俺を殺そうと仕込み杖の刃を振り下ろしてきた。


俺はそれを寸でのところで白刃取りしたが、そうしていなければ完全に刃は届いていた。

斬撃の速度自体はスローだったが、紛うことなき殺気がアーレントから放たれており、俺は魔王と対峙した時以上の恐怖を覚えた。


「お義父さん、話を聞いてください。大丈夫です。浮気とかは絶対にしませんし、お嬢さんを必ず幸せにできるように全力を尽くします!」


「まだ言うか……おのれ…………、うっ!……うぅぅ……」


突如、アーレントは杖を手放し、そして胸のあたりを押さえ、苦しみだした。


「お義父さん!」


俺はヴィレミーナとともに駆け寄った。


「やめろ、私に触るな……。く、苦しい……」


アーレントは力なくそう呟き、そのままうつ伏せになって倒れてしまった。

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