第198話 田中伊知郎

田中伊知郎たなかいちろうの心は、この異世界にやってくる前から、すでに闇に囚われかけていた。


不遇の人生。


これまで渡り歩いてきた様々な会社の上役たちも、両親も、娘を連れて出て行った妻も……。

誰もが自分を認めず、嘲り、そして見下みくだしてきた。


叱責され、恫喝され、人間としての尊厳をすら何度も踏みにじられてきた。


何をやってもうまくいかず、失敗ばかり。

最後の職場でも、毎日深夜遅くまでのサービス残業にも文句ひとつ言わず、過剰なノルマにも耐えて頑張ったが、「結果が出てない」の一言でリストラされた。


人材不足のこの時代にリストラってなんだ?

そんなに、俺が無能だというのか。


出勤を装い、背広姿で職安に通う日々。

毎日眠れず、無職になる前に撮り溜めていた大好きな昔の時代劇ドラマだけが唯一、心の癒しだった。

主人公の剣豪になったつもりで、銀幕の中の悪党どもばっさばっさと皆殺しにする。

爽快だったが、物語が終わるとまた元のみじめな自分に戻って虚しさだけが募る。



そして、職安近くの公園に向かう電車の中で、突然起こった異世界転移。

自分のうだつの上がらない人生を変えてくれると、その時は内心で大いに期待し、興奮した。


だが、この世界に来てからも、不遇は続いた。


異世界勇者となり人間離れした異能を手にすることができたが、魔王討伐隊内では、亀倉の後塵こうじんを拝することになった。


伊知郎が授かった≪大剣豪≫の≪職業クラス≫は、亀倉の≪魔戦士≫に決して劣るものではなかったが、なぜか初期レベルに大きな差があり、それが原因で隊長の座を逃してしまったのだ。


亀倉は、伊知郎にとってあまり良い上司ではなかった。


あの自分を蔑むような目。

これまでの上司たちと同じだった。


その亀倉も去り、ようやく念願の隊長の座を手にしたのだが、それも長くは続かなかった。

もっともらしいことを言う癖に無能で、性格に難がある部下しかおらず、任務は遅々として進まなかった。


私のせいじゃない。

私は精いっぱい努力していた。

誰よりも率先して魔物を狩り、すこしでもレベルアップして、与えられた任務を達成しようと必死だった。


だが、亀倉を中心とした他の異世界勇者たちは違っていた。

あいつらは誰一人として真剣に魔王を倒そうなどとは考えていなかった。

為すべきことをやらずして文句ばかり。

私の意見には耳を貸さず、皆、亀倉の顔色ばかり見ていた。


特にあのサユリという女は最低だった。

お荷物の回復係であるにもかかわらず、ことあるごとに私にたてついて来た。

亀倉が隊長だったときには上目遣いであれほど従順だったくせに。

多少美人で、良いからだしているからって、自分はちやほやされて当たり前だと思っている。

出て行った妻よりも何倍も見た目が良かったが、どこか男を舐めたような言動は同様で、殴りつけて屈服させたくなるのを、伊知郎は不愉快な会話の都度、必死でこらえていた。


みんな、嫌いだ。

私を拒絶する奴は、みんな滅びてしまえばいいのに。


いつしか、伊知郎はそう思うようになり、心を閉ざしかけていた。



だが、そんな伊知郎に一筋の光明をもたらしてくれた者が現れた。

国王の従弟であり、王位継承順位にも名を連ねる王軍司令バルバロス・アルバ・ゼーフェルトゥスだ。


無職ノークラスの異世界勇者であるユウヤに、大衆の面前で両肩を破壊され、無様な姿を晒すことになった伊知郎を、バルバロスだけは見捨てなかった。

肩の治療に腕利きの回復術師を手配してくれたばかりか、「俺はお前の価値をわかっているぞ。ただ、相手が悪かったな」と慰めるような温かい言葉までかけてくれた。


伊知郎には、バルバロスの存在が暗黒の世界に差し込んだ希望の光であるように思えた。


この主のためなら、私は死ねる。


伊知郎は心の底からそう思った。



バルバロスは伊知郎の両肩の傷が完治するのを待って、ある密命を与えた。


それは、自分と同じ地球からの転移者である≪救世きゅうせいの預言者≫ユウヤと王太子タクミの暗殺だ。


「バルバロス大将軍閣下の言葉は、私にとって神の言葉。しかし、先日の無様な姿をご覧になったでしょう? 私ではあのユウヤは討てません。それに、なぜあのタクミを? 今やあのブタは、王太子です。主君たる国王の子となった者を殺すのは不忠……」


「違うぞ、イチロウ。お前の主は、パウル四世ではない。この俺だ。奴らは国を傾ける害虫。この国難の時に、王太子時代から国中の年端もいかぬ少女たちを集めてハーレムを築くなど正気の沙汰ではないし、その実現を手助けするパウル四世も同罪だ。あのユウヤにしても世界が滅びるなどと虚言を弄し、いたずらに世を乱す存在だ」


「それは、私もそう思いますが……」


「イチロウ。なぜお前があのユウヤに負けたのかわかるか?」


「い、いえ……」


「俺は、≪大剣豪≫であるお前が、≪無職ノークラス≫のユウヤに劣るとは思っていない。お前と奴の差はレベルだ。レベルさえ上げれば、ユウヤの異常な能力値の高さとの差も縮まるであろうし、≪職業クラス≫を授かっているお前には数値には表れないクラス補正という加護が加算される分、上回れるはずだ」


「しかし、そのレベルですが、まだ30ほどであるにもかかわらず、成長速度が鈍化してきました。魔物を倒してもレベルが上がりにくくなってきたのです。≪成長限界≫というやつが近いのかもしれません……。ご期待には、……きっと応えられません」


膝をつき、絶望しきった顔の伊知郎に、バルバロスは二本の剣を手渡した。


それは、長短のある二振り。日本刀の本差しと脇差のように見えた。


「これは……?」


「王家所蔵の女神リーザの遺物だ。これらをお前にやる」


「なんと! そのような貴重なものを、私に!?」


「かまわんさ。時効だが、かつて若かりし頃の俺が、宝物庫に忍び込み、その奥から持ち出して数十年。その二振りが宝物庫から消えたことを、未だ誰も気が付かぬのだ。今のこの世界には、ニホントウの使い手は稀で、かつてそれを扱う術を伝えた一派も他国にあったと聞くが百年も昔に途絶えたという話だ。それに、……その一対には、いにしえから不吉な逸話が絶えなくてな。誰もそれに触れようなどとは思わないし、目に触れる事さえ不吉なことだとされてきたのだ。過去にその手に取った多くの王族やその貸与を受けた者などが不慮の死を遂げたのだという……」


「も、もう手に取ってしまいましたが、私は大丈夫でしょうか……」


「いいか、イチロウ。その一対のニホントウの名は、≪邪眼刀≫という。抜いて、その手に持ってみろ」


じゃ、邪眼刀……。

聞くからに不吉な感じだ。


伊知郎は恐ろしかったが、他ならぬバルバロスの指図だ。

大人しく従った。


伊知郎が本差しを鞘から抜き、その手に持つと鵐目しとどめについていた目の形をした模様がまるで生き物のようにぎょろりと動いた。


「皆から忌み嫌われているが、その真実、≪邪眼刀≫は、剣士を育て、導く武器だ。俺もこの≪邪眼刀≫に鍛えられ、お前たち異世界勇者に匹敵するほどの力を得た。そのことはお前も身をもって体感したことだろう」


バルバロスの言葉に伊知郎は大きく頷いた。


魔王討伐隊が解体され、国王軍に編入させられてからすぐに、伊知郎はバルバロスと手合わせする機会を得た。

≪格闘王≫の≪職業クラス≫を持つ青山勝造あおやまかつぞうと二人がかりで挑んでみたものの、簡単にあしらわれ、その実力に大いに感服させられてしまった。

これほど強いのになぜ、本腰を入れて魔王領に自ら攻め入らないのか問われたバルボロスは、その時、静かに笑って、答えてはくれなかった。


「その≪邪眼刀≫には、かつて女神リーザが調伏ちょうぶくしたあるよこしまな神の魂が封じられている。魂魄は二つに分けられ、その柄にある瞳のようなものは、長い方がその神の右目で、短い方が左目なそうだ。だが、今は改心し、力を欲する、資格ある者の求めに応じて加護を与えてくれるんだ。殺した魔物から得られる経験値を倍加させるだけではなく、本来は経験値が得られないはずの人間からもそれが得られる。どうだ、すごいだろう? 人間を殺してもレベルアップできるんだ!」


「は、はぁ……」


「この刀に宿る神は、殺した人間の魂の価値に見合う分の膨大な経験値をくれる。あのユウヤの45などあっという間に追い越すことができる。いや、異世界勇者であるお前なら、レベルの最大値であるという99にもきっと至ることができるぞ!お前には伸びしろしかない。自信を持て、イチロウ。そして、ぜひ、私の期待に応えてくれ!」


敬愛するバルボロスの興奮した様子に少し尻込みしながらも、あのユウヤを超える力を手にすることができるかもしれないと考えた伊知郎は、表情を引き締め、≪邪眼刀≫を見つめた。



この後、伊知郎は表向きバルボロスの麾下から出奔したことになり、しばらく王都を去った。


打倒ユウヤを掲げ、北の魔王領目指して修行の旅へ。


今度は培った実力を試すため、各地の実力者を襲い始めた。

その者の魂を、刀の神に捧げるため、そして更なるレベルアップを遂げるためだ。


人間を殺して、殺して、殺しまくった。

そのすべてを憎きユウヤに見立て、殺人を重ねるうちに、いつしかすべての人間がユウヤであるかのような妄想に憑りつかれることが度々起きるようになった。


時々、正気に戻り、そして殺伐とした悪夢に戻る。


いつしか毛髪はすべて抜け落ち、それと引き換えに伊知郎は無類の強さを獲得した。


王都に舞い戻ってからも、ユウヤを殺す絶好の機を待ちながら、夜は辻斬りをして殺人の衝動をなだめた。


そしてある夜のこと。


偶然にも、相手の持つ灯りが照らす路地裏の薄暗がりの中で宿敵と再会を果たしてしまうことになる。

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