第106話 美しき隠者

建物から出た俺は、少し歩いたところで固まってしまった。


忙しそうに働く木人形ウッドパペットたちの向こうに静かに佇み、こちらを見ているある存在に気が付いたからだ。


それは白く、美しい毛皮を持つ一匹の狼であった。


街道などで群れを成し、襲い掛かってくるウルフよりも一回り大きく、深緑の静かな森にあるその姿は気高く、どこか神聖な感じさえした。


俺を見つめる両の瞳は穏やかで、まるで人間のような知性が宿っているかのようだった。


敵意はない。


その銀色に光る双眸でそう告げてきているかのようであった。


「うわっ、すごくきれいな生き物だけど、あれも魔物なのかな? 熊とかもそうだけど、このサイズの動物に出くわすと普通にビビるわ……」


白狼はそんな俺のつぶやきなど意に介さぬ様子でまっすぐ俺の方に歩いてきて、そしていきなり目の前で腹を見せて寝転んだ。


これって、犬とかがやる服従のポーズなのかな?


「おなか撫でてほしいの?」


白狼はハッ、ハッと息をしながら笑っているような目でこっちを見ている。


嫌われてはいないようなので、勇気を出して手を伸ばしてみたが、抵抗したりせず気持ち良さそうにされるがままになっている。


俺の方もおなかのもふもふとした毛の手触りに思わず癒されてしまい、先ほどまでの嫌な気分がどこかに吹っ飛んでいってしまった。


「かわいいな……。犬とか飼ったことなかったけど、こんなになついてくれるなら、愛犬家の人たちの気持ちがちょっとわかる気がする」


そうやってしばらく撫でていると、白狼の口の端が少し赤く染まっていることに気が付いた。

どうやら何かの血のようで、どこかで狩りでもしてきたのだろうか?



白狼を撫でたり、お手を教えたりしていると、背後から扉が開く音がした。


振り返るとフローラたちが出てきて、そこには旅装をしたマルフレーサの姿もあった。

どうやら交渉がまとまり、協力を得ることができたようだ。


白狼は少し警戒したようで俺のそばを離れ、フローラたちと距離を取った。


「驚いたね。ブランカが、私以外の人間に懐いているのをはじめてみたよ」


「えっ、そうなの。めちゃくちゃ大人しいじゃん。この白い狼の名前、ブランカっていうんだ」


「そのブランカは、この隠者の森のぬし。今は無き妖精界との境にあった聖獣の森の生き残りさ」


「聖獣……。魔物とかじゃないんだ?」


「一緒にするんじゃないよ。魔物とは、魔界より出でたる生き物の総称。その聖獣は、かつては人界では神の使いやそれに比する神聖な生き物であるとして人々の信仰を集めたりしていたんだ」


「ふーん、妖精界とか、魔界とか、そんなのもあったんだ……。世界は広いね」


「女神リーザがこの世界の神として君臨する前のおとぎ話さ。今はもう人々の記憶から消え、それを伝える古文書の類もほとんどない。神代の遺跡などで見られる壁画や石板などがその存在のなごりをわずかに残すのみだ。かつてこの世界は、今よりももっと混とんとしていて、土着の土地神や原初の偉大な精霊たちがいたらしいが……、そのブランカはそうした存在の数少ない生き残りさ。女神リーザは、人間という種を愛し、それを率いて、妖精界や魔界、さらには精霊界などに侵攻した。抗った者たちはみな滅ぼされ、その難を逃れた者たちも今では山野や洞窟、隔離された異空間などで人の目を逃れてひっそりと暮らしているというわけさ。本来は、自分たちを絶滅寸前にまでに追いやったリーザの手先である人間を憎み、恐れているから、懐くことはおろか、人前に姿を現すことさえ嫌う。まさに隠者の森の「隠者」とは、このブランカのことなのさ」


「なるほどね。でも、それを言ったらマルフレーサだって人間じゃない? マルフレーサにも懐いてるんでしょ」


俺の質問にマルフレーサはため息を一つ吐き、「しかたないね……」と呟いた。


「私は、純粋な人間ではない。この体には、四分の一だけ、エルフだった祖母の血が流れている。この姿は、≪変身トランスフォーム≫という魔法による見せかけのものだ」


そう言うと白髪頭の美老女だったマルフレーサの姿が見る見るうちに若返り、どうみても二十代前半くらいの若い女性のものに変わっていった。

白髪は艶やかな銀色の輝きを取り戻し、透き通るようなその肌はまさに染み一つなかった。


耳が少しだけ尖がっているのは、そのエルフの血の名残なのだろうか。


あと、目つきが悪いのだけは変わっていない。


「驚いた!すっごい美人じゃん。もったいない。なんでそんなおばあちゃんの恰好してるわけ?」


「どうしてって、そりゃ人間の世界で生きていくために決まっているだろう。周りの人間と同じように歳をとらなきゃ怪しまれてしまうからね。人間は自分と違う部分があるものを決して受け入れたりしない。私はエルフの血のせいで老化の速度が人間よりもかなり遅い。若い姿のままじゃ、不気味がられたりするだろう? 私はこうみえても百歳近い年齢なんだ」


「いや、俺はぜんぜん気にならないけどな。自分の奥さんとかがずっと若いまんまなんて最高じゃん! そんなの気にする方がバカだよ」


「ふふっ、やはりお前は妙なやつだな。だが、この姿のままでは城の者たちは訝しみ、恐れてしまうだろう」


再び、マルフレーサの姿がもとの美老女に戻ってしまった。

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