第3話
ランの身体には大きすぎるダブルのベッドに横たわりながら、わたしは今日の出来事を反芻していた。
まだここにきて一日目だというのに、考えさせられることがあまりに多かった。
誰が見ても裕福で何一つ不自由のない幸せそうな家庭。
けれど中を覗いてみればそうとも言えず、その幸福はあくまでも幸せそうであって本当の幸せではないのかもしれなかった。
ランの父親と母親、何よりあの背中の傷跡。
わたしは考えに考えて、考えるのをやめた。
そして、横で寝ているランを見た。
窓から射しこむ月あかりに照らされたランの横顔は、とても美しかった。
寝返りの音が世界の隅々にまで届きそうなほど静かな夜。
月あかりに音があれば、きっと静寂だっただろう。
わたしは猫のようにまるまったランの背中に左手を忍ばせた。
ランのおでことわたしのおでこが密着する。
ランの微かな寝息が聞こえた。
無数のミミズ腫れと傷跡。
わたしに治癒能力があれば、すぐにでも消してあげたかった。
何を思ったのか、わたしはそのままの体勢で左手をランのうなじに移した。
指先に、何か触れるものがあった。
わたしはその感触を指でなぞった。
「エリス」
突然、ランが言った。
「起こしてしまいましたか?」
わたしは取り繕うように囁いた。
「ちがう、そうじゃない。ただ、ぼくは……」
ガシャン!
下の階で大きな物音。
二人だけの静寂は一瞬にして破られた。
「ランはどこにいる」
「二階でエリスと休んでるわ。もう遅いから」
ドシドシと階段をのぼる威圧的な音。
わたしはベッドから飛びおりてランを背にしてドアの前に立った。
「布団にもぐっていてください。ここはわたしが引き受けましょう」
ランは頷いて頭から布団を被った。
少し、怯えているようだった。
間違いない。ランの背中に傷を付けたのは、間もなく現れる人間だ。
そして、ノックもなしに部屋のドアが開いた。
「なんだ、真っ暗じゃないか。月あかりだけじゃ何も見えない」
しかしこちらからは見えている。
さっきまでランの美しい横顔を照らしていた月あかりが、今は傲慢で醜悪な横顔を照らしていた。
ランの父親、名前はまだ知らない。
知りたくもなかった。
「ラン、駄目じゃないか。俺が帰ってくるまで下に居ろと言ってあるだろう」
男はランのベッドまで一直線に歩を進めた。
わたしはその直線上に立ちはだかった。
男の分厚い胸板はわたしの目の前にあった。
「すでにお休みになっております。ご用がおありでしたら明日になさってください」
わたしを見下した男は、薄ら笑いを浮かべながら言った。
「明日? そんなものが来る保証がどこにある。今夜、世界が滅んだらどうするんだ」
男は右腕でわたしを退けようとした。
わたしは男の右手首を掴んで体勢を固定した。
一歩も引くつもりはなかった。
「最近のオモチャはよく出来ているな。賢いのはいいことだ。だが」
男はわたしの首を掴んだ。身体が床から離れる。
「頭が良くても馬鹿と変わらん」
ゴッッッッッ!!!
家が傾ぐほどの衝撃。
床に叩きつけられたわたしの肢体はパペット人形のようにぐにゃりとヘタった。
「さぁラン、今宵はなにをして遊ぼうか?」
布団を引き剥がそうとランに接近する男。
部屋の鏡が、その粘つくような笑みを映していた。
「今夜は、なにをして、遊ぶ?」
布団に手をかけた。
瞬間、雲が月を隠して、部屋は真っ暗になった。
わたしは足音を殺して男に近づいた。
それは阿弥陀くじの出口だった。
「ぐぅッ、ガァっあああああぁ……」
脂汗を滴らせた男は、首を百八十度まわして肩口からわたしを睨んだ。
わたしの右腕は男の背中から心臓を貫いていた。
「たかが、機械の、分際で……」
わたしは男の体温を感じながら右腕をゆっくりと引き抜いた。
ドロっとした体液がわたしをつたって床に落ちた。
男はその血溜まりに崩れて沈んだ。
暗くてよく見えなかったけれど、赤いと聞いていた血は、そうでもないような気がした。
酔いを誘うような強烈な臭いを放つ液体、それはまるで……
「何をしているの!?」
血相を変えて母親が闖入してきた。
マグナとカルタもいっしょだった。
「人を殺めたロボットがどうなるか、あなた知らないわけではないでしょう。
自動通報装置作動、間もなく警察が到着します」
母親は前後で抑揚のちがう声でわたしに言った。
わたしは同族を見るような目でランの母親を見た。
ランがママと呼んでいたこの女性も、わたしと同じロボットだった。
ママというのも単なる名前であって、母親ではないのだろう。
少しして警察がきた。
それは今夜の事態を事前に知っていたかのような迅速さだった。
わたしは警官に手錠をかけられた。
嫌われてしまっただろうか。
父親を殺したわたしを、ランは嫌いになっただろうか。
「エリス、ぼく、本当は……」
ランが何かを言いかけた。
わたしは、手錠がはめられた手でうなじに触れた。
手錠の鎖が冷たい。
そこには何かが刻印されているようだった。
わたしはその文字をゆっくりと指でなぞった。
manufacturing date 31/03/03
「早く来い」
警官がわたしを促した。
ドアが閉まる瞬間、わたしは部屋の鏡で自分を見た。
そこに映ったのは、二十歳ぐらいの碧い眼をした女性だった。
その姿は、まるで人間のようだった。
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