第2話
ディナーを食べたあと、わたしは二階にあるランの寝室へと向かった。
木目調の室内には壁一面に本棚が配置され、びっしりと書籍が並べられていた。
花や野鳥、昆虫の図鑑が主だった。
きっと、ランはそれらに強い関心があるのだろう。
その他は古典の小説がほとんどだった。
七歳ぐらいの子どもにしてはずいぶんと大人びたタイトルが並ぶ。
わたしは背表紙を目で追いながらランに質問をした。
「こんなに難しそうな本を読むのですか? こう言ってはなんですが、ランにはまだ早いような気がするのですが」
ランは少しだけうつむいて、なんとか聞き取れるぐらいの小さな声で答えた。
「お母さんが置いていったんだ。ぼくは読まないんだ。小説とか、あまり好きじゃないから」
わたしの脳内に大きなクエスチョンマークが浮かんだ。
お母さんが置いていったという言葉のニュアンスには、まるでランのお母さんが遠くにいるような響きがあった。
しかし、ランの母親はわたしたちと同じ一軒家に住んでいる。
さっきも、彼女が作ったディナーをランといっしょに食べたばかりだ。
「二人とも、お風呂が沸いたわよ。降りてきて〜」
下の階からランの母親の呼ぶ声がした。
「エリスはお風呂とか入れるの? 壊れたりしない?」
「問題ありません。完全防水です」
「よかった。じゃあ行こうか」
わたしは脱衣所で黒のワンピースと下着を洗濯籠に放り込んだ。
鏡の前を横切ったが、あえて見なかった。
自分の容姿を確認するのが少し怖かった。
わたしはいったいどんな顔をしているのだろう。
ルッキズムを信奉する人間であるはずのランが、あれだけ懐いてくれているのだからそれほど悪くはないのだろう。
わたしは勢いよく浴室のドアを開けた。
積乱雲のような湯気が視界を遮った。
目を凝らすと、ランは後ろ向きで洗髪をしていた。
立ちこめる湯気の中でも、ランの鮮やかな金髪はよく映えた。
「湯気がすごいね。エリス、そこの換気扇のスイッチ押してよ」
「承知しました」
わたしは換気扇のスイッチを押した。
湯気は森の霧のように少しづつ晴れて、わたしの視界にランの姿がハッキリと映じた。
その背中には、蠕動するような無数のミミズ腫れがあった。
それはとても生々しく現代アートのように不可解だったが、いろいろと推理して辿り着いた答えのひとつに虐待があった。
しかし、自分の出した答えに納得できない気持ちが強かった。
こんなにも幸せそうな家庭にそんなグロテスクな事実があるとは信じられなかった。
でも、虐待で物理的な暴力を加えられていないとしたらこのミミズ腫れはなんだろう?
先天的に生まれ持っての傷跡なのだろうか。
それとも何かの病気、もしくは事故で負った傷なのか。
そのどれもがありそうな気がした。
ランの背中のミミズ腫れは、まるで迷路の阿弥陀くじのようにわたしを惑わせた。
考えてもわからない。
ならばスルーしようと決意した。
ここでわたしがランに「その背中の傷跡は?」などと訊いて納得のいく答えが得られたとして、それがいったい何になるというのか。
人には触れられたくない過去があるし、それを日常会話のような気軽さで質問するのは野暮というものだろう。
わたしはランの背中からそっと視線を外した。
この家に棲んでいれば、いずれわかることだと思った。
「タオルをね、こうやって頭に乗せるとのぼせないんだよ」
湯舟から首だけ出したランが先人の智恵を踏襲して言った。
わたしも、ランに習ってそうしてみた。
「ねぇエリス」
「はい」
ビュッ
「わっ!」
「えへへへへへへへ」
水鉄砲を持って満面の笑みのランだった。
「応戦します」
わたしは湯おけにお湯をいっぱいにしてランにぶちまけた。
浴室での紛争は延々と続いた。
気がつけば、入浴から一時間が経過していた。
「ねぇエリス」
「はい?」
わたしはまた水鉄砲を浴びせられると思って身構えた。
しかし、そうではなかった。
「ぼくのこと好き?」
思いがけない質問だった。
わたしは間髪を入れずに答えた。
「好きですよ」
ランは世界中のチョコレートパフェを独占したような笑顔になった。
わたしもランに質問してみた。
「ランはわたしのこと好きですか?」
「うん、好き!」
そのときのわたしも、きっと世界中のチョコレートパフェを独占したような笑顔だったにちがいない。
楽しい時間はあっという間に過ぎた。
ランといっしょに脱衣所に出てバスタオルで身体を拭いた。
背中にあるミミズ腫れは、身体が火照ったせいかさっきよりも浮き出て見えた。
考えに考えた末、わたしの阿弥陀くじはやはり最初の答えに行き着いた。
どうしても、その答えしかないように思われた。
脱衣所から出て行くランの背中を見送りながら、誰にも聞こえないような声でつぶやいた。
「これ以上、ランに危害を加えたらわたしが許さない」
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