幼獣
湿って膨らんだ土に、さっくりと蹄の後がつく。けもの道を覆う枝葉が、何度目かかき分けられた。朝露の名残りを吸い取る毛並みは、細かく刺々しい枝も絡めとる。そうして巨体は、自身の身体が通り抜けるだけの道をつくる。
堂々とした体躯に押しのけられた道に、身軽で小柄な影も続いた。精密な遊びのように大きな蹄の足跡の
中へと細い跡を押し込んで跳ねるように歩く。
倍近くもある身体に作ってもらった道は十分すぎる広さで低い目の前に広がる。光の通り道が変えられていってちらつく眺めに疲れてみれば、足元には踏まれた虫の死骸や、難を逃れて這い出す小さな生き物が溢れている。
目を引くようにばたつくものに目を奪われるが、熱気を持った大きな尻が遠ざかれば、たちまちひんやりと心細さが毛皮に沁みる。
名残惜しそうに目をちょこちょこ落としながらも、軽やかに迷いなく親の背を追って跳ね駆ける。
足跡からは、そんな光景が浮かんだ。
もはやはっきりと光の筋を差し込まれたけもの道で、狩人は目で道を辿りながら立ち上がった。
すでに乾いた土に刻まれた、大小重なった蹄の跡。見知らぬ場所で途方に暮れた気持ちが多少軽くなった。当初追っていたシカには逃げられたが、はるかに勝る肉の量になるだろう。
持ち帰りきれるか少し不安だが、幸いにして森は豊かで、多少の野営も許してくれそうだ。少し時間のかかる処理をしてでも、多くの肉を持ち帰れたら良い。
取らぬうちからそんな算段をしつつ、足跡を追う。
妙な具合だった。遠くに流れる水音を目当てに、輝く道をゆく。
都合はいい。土の上で血を垂れ流すよりはよほど。 だが音は、轟くような巨大な水源を表し、すでに空気さえ震えるようだ。
獣が喉を潤すには不釣り合いな激流の気配。獣、それも肉を狙われる類のものが、好んで自然に近づく場所ではないはずだ。
水を飲むことさえ、自然では命懸けなのだ。
身を潜める茂みも木もない、広い石の河原を持つような場所。蹄にはあまりにも嫌な場所だ。小さな供連れがいてはいっそう避けそうな場所だ。
おまけに、遠くで、びたびたびたびた、と音がした。分厚い背中の毛皮と、それに守られた肉を木に叩きつける音だ。縄張りを示すための行動をする生き物の音だ。
その肉球は、蹄を絡め取るような足場にも柔らかく応じて力を込めるだろう。
森の陰の中からも、明るすぎるその場所はよく見えた。だが耳の一切は殺された。列車のように小刻みで、遠吠えのように朗々とした川の音は、近づくほど、巨大なうねりを見せつけ轟々と吼える。
強すぎる流れが暴れていた。下流で枝分かれして森の全てを潤せるほどの水は、一つにまとまるとひたすらに凶暴な力のかたまりだった。水を飲むどころか、足を踏み入れれば絡め取られそうな流れだった。
そして、黒々とした蛇のような川に至るまでの、白く照らされた川べりに、赤い血溜まりはくっきりと浮いていた。
石ころだらけのその場所で、巨大な蹄を持つ身体が横向けに倒れていた。
自身の血に沈みかけているような有様だ。茶色の毛皮は、はちきれんばかりの筋肉に包まれていたであろう胴体の形をしていない。毛皮が幾つにも引きちぎられて、血溜まりのところどころに無造作に捨てられている。
剥かれた胴は、すでに食い荒らされていた。肉色の表面は意外に残り、横腹に食い破った穴の中、内臓が主に食い荒らされている。美しい毛皮を持つ長い首は手付かずのままで、生きていたときの姿が無惨な死とくっつけられている。
すなわち、まだ食べかけ。まだまだ肉を残した骸。
嫌な予感が突き抜けた。
振り返れたのは幸運だった。
ほんの十数歩の位置に、黒い塊が殺意を燃やしていた。角の一撃をもらったか、金色の毛が混じった肩口からわずかに血を流しているのが見えた。
コフッコフッと息を鳴らしている腹の動き。全身の筋肉が硬く結びついて、息に合わせて血を沸かす。
川音が轟く中で見つめ合う。目線を外せば殺意が弾ける。どちらかが終わる。
その緊張をぶち壊しにするように、獣の後ろでころりと動くものがあった。
まるで生えたてのようにふわふわとした毛の玉が、殺意の後ろで小石をくわえて進み出る。はち切れんばかりの命のやり取りなど、まだ知らないような無垢な瞳にまんまと視線が吸い寄せられた。
小さな命が見つかったことで、黒い殺意は爆発した。巨体が風に溶けるように眼前に迫る。守られた命さえ驚いて高い声を出す。
だが、構えは間に合った。
銃弾はどうにか心臓を抜いた。だが、巨体の命は走り続ける。一か八か、真っ赤に迫る口を目掛けるつもりで引き金を絞った。
真っ赤な口は真っ赤に弾け散らばった。
遠く、遠くまで轟く悲鳴じみた咆哮。
到底人の身であげることの敵わない断末魔に、勝利の確信など湧いてこない。もう1発弾を込めさせるだけの迫力があった。
角度によっては跳ね返されてしまう頭蓋に弾が打ち込まれ、水飛沫のように簡単に小石を撒き散らしながら巨体が地面に突っ込んだ。
食べかけの獣の死骸と己を食いかけた獣の死骸に挟まれた狩人は、よろめきながら距離を取った。
激流に巻き込まれるすれすれのところまでくると、ようやく倒れ込むように手をつく。丸みのある小石でも、あるべき痛みを感じない。まだ心臓が騒ぎ立てている。
横たわる死骸は己だったかもしれない。そのことが水のように心に染み渡る。恐怖を引かせるには、頭を動かすことが1番だった。
獣の食った肉はもう人が口をつけるべきではない。
だが幸いにして、襲撃者も十分な肉と毛皮を携えている。とても1人では肉を運び切れないが、毛皮だけでも大収穫だ。離れてみてこそ目をみはる巨体だった。森の中で聞こえた匂いづけの音を思い出す。縄張りは広い、音の主は間違いなく目の前の死骸だろう。
ともすると、森の主を葬ってしまったかもしれない。思い至って、まだ力の入りきらない体でどうにか膝をつき頭を垂れて、祈りを捧げる。睨み合いを破った子どものことを思い出した。気配を感じないから、きっと逃げたのだ。
庇護する親を失ったことを、手にかけた身でありながら案じてしまうのを避けられなかったが、鑑賞に浸ってばかりもいられない。一通り祈ると、ゆっくりと姿勢を解いて、死骸へと向かった。
巨体を転がすのは一苦労だった。仰向けにさせるだけで、もう何もできなくなりそうだった。そこからは、慣れ親しんだ技とはいえ骨が折れた。
腹を切り開き、まずは脂身のギリギリまで切り広げる。脚の間まで切り広げたところで、ふと睾丸の存在を思い出した。
これほどの巨大で、森の主のようである。オスであることは容易に知れた。
弾かれたように顔を上げる。果たしてそこに、ふわふわの毛玉が座り込んでいた。目を向けたことで、この存在の殺意を爆発させた子ども。その習性は、命のやり取りの中で容易に受け入れられた。
だが、しかし。この存在は、オスである。オスが子連れで気を荒ぶらせることなど。
子どもはじっとこちらを見ていた。親を殺したはずの生き物を、無垢な瞳でじっと見ていた。足を投げ出して尻をつけて座る姿はヒトの赤ん坊にも通じる姿で、ただただ愛らしい。
真っ黒な瞳が見つめる。まるで心まで見つめるような透き通った視線に、頭の中に光が差すかのように眩暈を覚える。
「大丈夫?」
ふらついた背を、小さな手が支えてくれた。
たどたどしい、ああ、という声で応える。いかん、安心させてやらねば。
「流石に、くたくただからな。早くこいつを片付けないと」
「お父さん、強かったもの。すぐに終わっちゃうよ」
イタズラっぽく笑う声に、こら、と額をこづいて目を合わせる。真っ黒な瞳を持つ娘は、笑みを残しながらも見つめ返してきた。
「しっかり手伝うんだよ。命をもらうことなのだから」
「うん」
心得ている、という頷き。
賢い我が子に、改めて支えられる気分になる。
「あっちは?」
指さすのは、蹄を持ったやはり巨大な死骸だ。
「あっちは、私たちは食べられない。森のものになっているから、そのままにしておこう」
「そういうもの?」
「ああ。そうしてまた、小さな生き物が育つ。土も肥える。やがて命が巡っていくんだ」
「ずっと、森の中で?」
頷くと、娘はもう一度不思議そうに死骸を見つめた。別の知恵も授けてやろうと言葉を探す。
「多分、子供を守ろうとしたんだろう。小さな蹄の跡もあったからね」
「子ども、逃げたの?」
「逃したんだろう。この、恐ろしい敵からね。今頃は遠くで、ひとりぼっちかもしれない。だが、あの親から生まれたなら、大物になるかもしれないな」
稀に見る巨体だ。こちらを仕留めるだけでも、かなりの収穫だっただろう。それを掻き消すほどの獲物の出現も、奇跡と言える。
狩人として、一世一代の勝負だったかもしれない。
「遠くに逃げたの?」
だが、娘の関心はまだ蹄にあるようだ。それでもいい。自分は、子供だけを残さずに済んだのだ。
「ああ、遠く、遠くに。まだ逃げているかもしれない」
「逃げて、大きくなるの?」
「ああ。無事育てば、きっと今の姿から、見違えるよだろうね」
ぱぁっと、娘が顔を輝かせた。
狩人の娘。だが全て狩り尽くすわけではない。
命が続く喜びを、この子が知ってくれた。それは、親にとっても喜ばしく明るいことだ。
「みちがえて、強く強く!」
「ああ、そうだ」
「大きく、強く!」
「そうだね」
「賢く、強く強く!」
飛び跳ねるように、腰に抱きついてくる。小さな背中に手のひらを乗せれば、白い歯をこぼして笑顔が返ってくる。
「もっとたくさん、教えてお父さん!」
応える代わりに、ぽんぽんと背中をさすった。
川音は遠く、笑い声は転がる。
こんな瞬間を永遠にするために、親となったものは命をもかけるのだ。
蠢森 波打ソニア @hada-sonia
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