第2話 心霊スーツ

 左手を広げ天に向け高く伸ばす。充分に力を溜めたのち拳をつくると、溢れる力が腕を震わせた。

 右手に持つ、白く先の尖った一見脆そうな細い棒を気合いと共にひと振りすると、落雷のごとき爆音が炸裂した。

「混沌」の始まりの響きだ。

 その中心に立つ男の髪が、音圧によって靡いた。

「凄い」

 その様子を見ていた少年が思わず呟き、声を出すべきではない場所で出してしまった声を飲み込むように両手で口を塞いだ。だが、周囲の者たちの誰も少年を責めなかった。

 一定の音程を保つクワイヤーのテノール。ストリングスの休符を埋め、その旋律から正にフーガ逃げるように乱舞するソプラノとアルトのハーモニー。

 クラシック音楽らしからぬティンパニのゴーストノートは、その譜面に記された細かさとは裏腹に存在感を増してゆく。

 ホルストの弟子であるカルヴァールが、ホルストの「惑星」に対する不満をぶつけたとされる二つの組曲スウィートは、その魂を揺るがすエネルギーによって、カルヴァールの心霊サイキック組曲たちスーツと呼ばれている。

 この二つの組曲、「混沌」と「安寧」は長らく演奏されなかった。

 難曲が多く、全奏者が一定以上のレベルになければ演奏が難しい上、演奏場所が教会に限られていると言う理由は、聴衆に向けられた表面上のものだ。

 この組曲を指揮する者は、カルヴァールがホルストに対して抱えていたものと同じく、明らかな負の念を持って指揮棒を振う。

 かつて何度か、そのあまりにも独特な音楽性の魅力に取り憑かれ「混沌」のみでも演奏しようとした者も存在した。だが、そういった心持ちで心霊スーツに向かい合った指揮者たちは、必ず混沌の渦に飲まれるように姿を消していた。

 組曲「安寧」を演奏したくなる説明できない欲求。それを「木星の巨大な引力に吸い寄せられるようだ」とホルストの「惑星」に準えて表現した指揮者J.J.ニコロは、カルヴァールがペットとして飼っていたのと同じ種類の大鷲に襲われて死んだ。

 音楽業界では「カルヴァールの呪い」として語られ続ける事件だ。

 また、「安寧」へと向かう「混沌」の第六番ニ短調、通称「転落のジーグ」のみを演奏したP.H.パパンは、演奏終了直後にステージ上から転落し、命はとりとめたが脊椎の損傷により首から下が不随となった。

 このような事件、事故によって「心霊スーツ」と呼ばれるようになったのか、「心霊スーツ」であるが故、取り憑かれてゆくのか。その関係が曖昧になる時間を経て、今この島国日本の小さな島にある歴史ある教会で、日本人指揮者によって百年ぶりに演奏されている。

 そこに流れていたのは「混沌」と題された「秩序」であった。

 秩序を持って人々の心を混沌へと導くよう計算され尽くされた旋律。

 整列し、低きに流れる人波を表したような転落のジーグで終わる混沌。安寧へと転がるひとつめの組曲は、天高くから降りてきた一雫のような、オーボエの極限まで音量を絞られたDのフェルマータで幕を下ろした。

 無音になっても指揮者の両の手は横に広げられたままだ。その無音さえ、音楽であった。

 観客が時の流れに疑問を持ち始めた頃、ようやく指揮者が両手を上に上げた。

 座っていた演奏者たちが一斉に立ち上がる。指揮者が観客へと振り返る。

 混沌。賛美する声は上がっても、そこに秩序はなかった。観客たちの中で育った音楽への感動が、無秩序にオーケストラに向かって発散された。

 プログラムには「安寧」の前に「休憩十五分」と書かれていたが、歓声はその十五分を超えて続いた。

 今の時代、人々は「安寧」を求めていないのだろう。

 この記事を書く私もそうであった。それ程までに「混沌」は完璧だった。

 今でも私の耳には、オーボエのDが細く鳴り続けている。この教会に囚われたままで。

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