第31話 異世界、セルティアの森

「はぁ、はぁ……はぁ……」


 美しい銀髪を振り乱しながら、エルフの少女は夜の森を全速力で駆け抜けていた。迫りくる足音に耳を澄ませると、後ろから得物を振り上げたダークゴブリンの群れが迫っていることがわかる。


「エルフを一匹も逃がすんじゃねぇぞッ!」


 霧深い森を月光が照らす中、蛮声が轟いた。


 ――どうしてっ、こんなことに……。


 長く特徴的な耳を持つ少女、エルミアは、今朝の出来事を思い出していた。




「森の様子がおかしい」


 普段は太陽の光が差し込み、小鳥のさえずりが響き、草花が風に揺れるセルティアの森が、異様なほどの静けさに包まれていた。


「エルミア!」


 少女の銀髪が軽やかに揺れる。エルミアの視線を引き寄せたのは、友人のイシリオンだった。イシリオンの青い瞳が、緊急のメッセージを伝えるように輝いている。


「族長が呼んでいる。すぐに村に引き返せっ!」

「父上が?」


 エルミアは友人のイシリオンと共に、急いで村へと引き返した。


 村の広場には、彼女の父をはじめ、多くのエルフ族がすでに集結していた。彼らの顔つきは、一様に厳しいものだった。


「父上、これは一体どういうことなのです!」


 長身の男はエルミアを一瞥すると、その視線を森の奥へと走らせた。


「闇の勢力が動き出そうとしている」

「闇の勢力……?」

「あれを見なさい」


 彼が指し示す方向には、黒い霧のようなものが広がっていた。その霧は徐々に、森を飲み込むように進んでいる。


「あれは……何なのです!?」

「わからん」


 彼の言葉に続き、しわの奥の瞳を鋭く輝かせた老婆が口を開いた。


「瘴気じゃ」

「瘴気……とは一体何なのです?」

悪魔デーモンが放つ毒のようなものじゃ」

「毒!?」

「あれを一定量吸い込めば、たとえ我ら光の民とてただではすまん」


 少女が「どうなるのか」と尋ねると、老婆は深刻な表情で「正気を失い、自我が崩壊する」と答えた。


「!?」


 老婆の言葉に、一時広場は騒然となり、驚きの声が上がった。


「静まらぬか!」と叫ぶ族長に対し、


「アイグノールよ、早急に対処せねば、一族の全滅もあり得るかもしれぬぞ」


 と、老婆は深刻な声で言った。


「サイロス! これより緊急の会議を開くぞ」

「了解した」


 族長のアイグノールを先頭に、数名の男たちが動き出した。


「父上! 私も――」

「お前はそこにいなさい!」


 アイグノールの厳しい声に、エルミアはためらいながらもその場にとどまった。族長たちが急いで移動する中、エルミアは心を落ち着かせて、アイグノールの指示を待った。


「まだなのか!」


 族長たちの協議は数時間にわたり、夜がセルティアの森を覆い尽くすまで続いた。




「父上!」

「族長!」


 厳しい表情のアイグノールたちが建物から出てくると、エルミアとイシリオンが駆け出していた。


「エルミア、お前は明朝、ここを発て」

「父上は!」

「わたしは皆とともに村に残り、瘴気が村に入らぬよう結界を張る。その間に、お前はこれを人族の王に届けるのだ」


 エルミアはアイグノールから封書を受け取った。


「族長、おれは!」と声を張り上げたのは、凛々しい短髪がよく似合うイシリオンだ。


「イシリオン、お前には娘の護衛を任せたい。頼まれてくれるか?」

「もちろんです!」


 こうして、エルミアとイシリオンは夜が明けるのを待ち、村を出発することになった。それまでの間、ふたりは自宅で休息していた。一方、村の人々は瘴気から村を守るため、アイグノールの指揮のもと、総力を挙げて結界を張っていた。


 ――のだが、その時突然、鷲鼻に片眼鏡をかけた老人が現れた。


「その程度の結界で、儂の瘴気を防ぐつもりか?」

「!?」


 闇の奥から現れた老人の背後には、数え切れないほどのダークゴブリンが、凶暴な牙を輝かせて立っていた。

 村人たちが狼狽える中、ただ一人、恐れずに立ち向かう者がいた。


「貴様、何者だっ!」と、族長のアイグノールが声を張り上げた。


「我が名はアガレス。貴様らを支配する偉大な上位悪魔グレーターデーモンである」


 上位悪魔グレーターデーモンと聞いた瞬間、エルフたちの顔に焦りの表情が現れた。


「サイロス、エルミアたちのもとへ急げ」


 アイグノールの命令に、サイロスは不審そうに顔をしかめた。


「まさか、一人で上位悪魔グレーターデーモンと戦う気か――」


 サイロスが異議を唱える前に、


「俺たちを忘れんでくださいよ」


 武器を手にしたエルフ族の若者たちが、次々とアイグノールの周りに集まっている。


「お前たち……」


 アイグノールは再びサイロスに視線を投げ、短く「さあ、行け!」と言い、腰から長剣を引き抜いた。





「エルミア、起きろ!」


 その後、エルミアは、サイロスに起こされると、アイグノールから受け取った封書を手に取り、自宅を飛び出した。



 そして、場面は冒頭へと戻る。


「逃がすんじゃねぇぞ、ゴブリンどもっ!」


 エルミアは現在、菫色の髪を束ねた細身の男に追われていた。


「――――ッ!?」


 慌てていたせいもあり、エルミアは樹の根に足をとられて転倒してしまった。


「ゴブゥウウウウウッ!」


 エルミアに向かって襲いかかるダークゴブリンが、しかし次の瞬間には、地面を大きく転がっていた。


「イシリオン!?」


 ダークゴブリンを巧みな槍さばきで薙ぎ払ったイシリオンは、額に浮かぶ玉のような汗を拭いながら、奥歯を噛みしめた。


「なんとか間に合ったみたいだが、これはまずいな。……立てるか?」

「問題ない。それより、助かった」

「礼ならここを切り抜けてからにしろ」


 ふたりの視線が注がれている先には、強力な魔力を発する男が立っていた。


「あれは……手ごわそうだ」


 というイシリオンに対し、


「二人でかかれば問題ない」


 というエルミア。

 イシリオンは果たしてそうだろうかと、微かな不安を感じていた。


「エルミア、お前は先に行け」

「は? 何を言っている! お前を置いて一人で行けるわけないだろ!」

「冷静になれ! 村では族長たちが戦っているんだ。皆、俺たちを送り出すために命を賭けている。ここで俺たちがもたついているわけにはいかない」

「しかしっ!」

「自分の使命を忘れるな! お前の使命は、人の王に悪魔どもが動き出したことを伝えるため、託された封書を届けることだろ! 俺の使命は、そんなお前を護衛することだ。わかったらさっさっと行け!」

「……ッ」


 悔しさに胸を締めつけながら、エルミアはイシリオンに背を向け、走り出した。


「すまない、イシリオン」

「――――――――」


 やがて、悲痛な絶叫がセルティアの森に響き渡る。


「――――なっ!?」

「おいおい、仲間を見捨てて一人で逃げる気かぁ? 随分と薄情なエルフもいたもんだなぁ」


 先程まで後方にいたはずの男が、愉快そうに肩を揺らしながら、前方から現れた。


「あっ、そうそう、これてめぇにくれてやるよ」


 そう言って男は、エルミアの足下へとイシリオンの首を投げつけた。


「イシ……リオン……?」


 一瞬、何が起きたのか理解できず、エルミアはただ茫然と立ち尽くしていた。

 しかし、その衝撃が脳に刺さると、憤怒が燃え上がり、怒りの炎が心を包み込んだ。目の前に立つ敵に向かって、エルミアは激しい怒りを叫んでいた。


「ぎざまぁあああああああッ!!」


 腰から長剣を抜き、男に向けて袈裟斬りの一撃を放つエルミアだったが、男は身を翻して軽々とそれをかわした。


「バカなッ!?」

「てめぇはさっきのよりずっと弱えなぁ。斬ることばかりに集中しすぎて、ボディががら空きだぁ」

「ゔぅッ!?」


 ゼロ距離から放たれたシャドーボールが、エルミアの腹部に容赦なく突き刺さった。砂塵が舞い上がり、エルミアは派手に転がりながら大木に背中から激突し、息をのむような衝撃が辺りに響き渡った。


「……っ」


 吐血し、息ができないほどの激痛がエルミアを襲う。

 朦朧とした意識の中、男は興味を失ったような目を向けていた。


「てめぇはつまんねぇ女だなぁ。もういいや、死ねよ」


 男の指先に、強力な魔力が集まり、エルミアは死を覚悟した。

 その瞬間、突然強風が吹き荒れ、エルミアの体は宙に舞い上がった。


「なんだ……これは!?」


 突如現れた次元の裂け目に、エルミアの身体が引き込まれていく。


「うわぁああああああっ!?」




 ◆◆◆




 どさっ。


「なっ、なんだ!?」


【墳墓の迷宮】七層を歩いていたアンデッドマンの上空から、突如銀髪の美少女が降ってきた。

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