第28話 羽川さんがウチに来た日①
さて、困った。
羽川さんに押しきられる形で、彼女を自宅に招き入れてしまった。
現在、羽川さんはリビングのテーブルに座り、俺は買い置きしていた茶葉でお茶を淹れている。
「緑茶しかなくて……」
「気を遣わなくていいのよ。でも、ありがとう。頂くわね」
にっこり微笑んでからお茶を啜る彼女の正面に、俺も腰を下ろした。自宅であるにもかかわらず、まったく落ち着かず、ソワソワしてしまう。
羽川さんの方をちらっと見ると、彼女は興味深そうに部屋の中を観察していた。
「あ、あの!」
部屋の中をじっと見られると、小っ恥ずかしさがこみ上げてきて、つい大きな声を上げていた。
「そ、その……話というのは?」
「君、本当に一人暮らしなんだ」
「え、あ……はい。今は妹が入院生活をしているので」
「そっか」
とつぶやいた羽川さんが立ち上がり、ゆっくりと台所へと向かった。
「料理とかするの? ……って、何よこれ!?」
「あ……」
昨日帰宅してから、何か食べられるものがないかと冷蔵庫の中を一通り調べ、結局食べられなかった残り物がキッチンに散らばっていた。
「いや、あの、これは……その」
病院から帰って来たら掃除するつもりだったことを口にすると、
「言い訳しない!」
なぜか怒られてしまった。
「はい……」
飼い主に叱られたシェパードのように落ち込んでいると、
「君は洗濯物をまわして、その間に掃除機かける。終わったら洗濯物を干す! はい、すぐに取り掛かる!」
「は、はいっ!」
突然家にやってきた羽川さんの指示のもと、なぜか我が家の大掃除が始まった。
こんなにしっかりと掃除をしたのはいつ以来だろう。
雪菜の病気が判明し、入院してからというもの、まともに掃除なんてしてこなかった。それどころじゃなかったというのが正しいのだけれど、生活空間が整うと気分まで晴れるような気がした。
初めはなぜこんなことをするのかと思っていたけれど、終わってみると、羽川さんに感謝している自分がいた。
「よし、それじゃあ買い出しに行くわよ」
「買い出し……ですか?」
なぜ……? と疑問符を浮かべる俺に、
「さっき冷蔵庫の中を確認させてもらったけど、何も入っていないじゃない。ダメよ、食べ盛りの男子高校生が食事を抜くなんて。君は
「あっ、ちょっ――――」
腕を掴まれ、俺は半ば強制的に買い出しに行くことになった。
「あ、あの……」
「ん……なに?」
近所のスーパマーケットにやって来たのだが、羽川さんは先程から上機嫌で俺の腕にしがみついている。そのせいもあり、彼女の豊満なバストが俺の腕に当たっていた。
スケルトンだったら気にもしなかったのだが、現在の俺は生者。何から何まで元気いっぱいの生者なのだ。
特に思春期の男の子には、羽川お姉さんのわがままボディは刺激が強すぎる。
「い、いえ……」
お、おっぱいが当たっていてすごくドキドキするので、少し離れて歩いてください――そんなこと言えるわけもなく、俺は言葉を飲み込んだ。
「宗ちゃん好きなものある?」
と、言われても、
「男の子だからやっぱりお肉かな? とんかつとか好き? 普段揚げ物とかしないでしょ?」
「あ、はい。好物です」
生前までの話だが……。
「ふぅえッ!?」
「ん?」
「あら」
何という偶然か、近所のスーパーマーケットで【黄昏の空】のリーダー、響鏡夜に偶然出会ってしまった。
「アンデッ……いや、不死川宗介と……ギルド職員のお姉さん」
響は驚いた様子で何度も俺たちの顔を交互に見つめ、その後絡みつく腕に視線を落とした。
「くそっ、羨ましい……」
「へ?」
「いや、その、こんな所で奇遇だな」
「だね。響も買い出し?」
「ああ、マ……母さんから醤油を買ってきてくれと言われてな」
おつかいか。
そこでふと思う、響って何歳なんだろう。
「21だ。ちなみに大学三年。お前の三年先輩になる。……職員さんは?」
「……」
ん……?
笑顔を浮かべたまま、羽川さんがピクリとも動かなくなった。まるで動画の停止ボタンが押されたかのようだ。
聞こえなかったのかな? と言う風に後頭部をニ、三度掻いた響が、再び同じ質問を投げかけると、ピキッ! と、羽川さんのこめかみ辺りから妙な音が聞こえてきた。
「……響くん、女の子に気安く年齢を聞くものじゃないってママに教わらなかったかしら?」
「……ご、ごめんなさい」
大人の余裕を感じさせるように微笑んでいるが、目はまったく笑っていなかった。
「いいの。響くんはまだ大学生のお子様だもの。女性の扱いを知らなくても不思議はないわ」
「いや、僕はこの見た目通りかなりモテるからね、それなりに女性の扱いは得意な方なんだ。よかったら今度、お姉さんにも男の人を紹介しようか? 三十代でも四十代でも、僕って意外と顔広いからさ」
響が得意げに口にした後、再びにっこり微笑んだ羽川さんが一歩前に身を乗り出し、ガッ! と響の胸ぐらを掴んでいた。
「響鏡夜くん、どうしてあたしに紹介する男性がアラサーやアラフォーなのかな? どうして? ねぇどうして? なにか理由があるなら是非聞かせてほしいんだけど」
「も、申し訳ありませんでした……」
イケメンホスト風はどこへやら。羽川さんと相対すれば、あの響鏡夜もただのダメな大学生のように見えてしまう。
さすが羽川さんだ。
「それに、あたしのタイプは年下なの。おっさんに興味ないから」
響の耳元で何かを話しているようだが、ここからでは何も聞こえなかった。
「なら、僕は!」
「お姉さん、君のようにチャラそうなのはNGなの。年下は純朴そうな子に限るの。わかる?」
「……はぃ」
目を輝かせていた響だったが、次の瞬間にはがっくりと肩を落としていた。
その後、ゾンビみたいにのそのそと歩く響と別れ、マンションまで帰ってきた。ポストを確認すると配達伝票が入っており、宅配ボックスに目当ての物が入れられていた。
「よかった」
これで明日には学校に行ける。
「それは何?」
興味深そうに小包に目を向ける羽川さん。
「昨日、ネットで黒染め用の液を買ったんです」
「黒く染めるの? そっか。それなら少し安心かな。あたしはてっきり君がグレちゃったのかと心配して、ずっと気になっていたけど聞けなかったのよ。ついでにそのへんてこなサングラスも外したら……」
「――――」
羽川さんの手がスーッと顔に向かって伸びてきたが、俺は身を翻してそれをかわした。
「……」
「………」
狭いエレベーターの中で、不気味な静寂が3秒ほど続いた。
「どうして逃げるの?」
「……逃げてませんよ」
「あたし、嘘は好きじゃないな」
「嘘じゃありません」
「そうなの?」
「はい」
羽川さんと視線が交差した直後、再びサッと手が伸びてきたが、俺の俊敏性は889。回避できないはずがない。
「――――ッ!」
「――――」
むっと眉間にしわを寄せた羽川さんが、千手観音のように右手、左手、右手と高速で手を伸ばしてくる。俺はそのすべてを、最小限の動きだけで回避してみせる。
「逃げてるじゃない!」
羽川さんが叫び声を上げたところで、タイミングよくエレベーターの扉が開いた。
「着きましたよ」
と言いながら、俺は逃げるようにエレベーターから出た。
しかし、困ったことに、帰宅してからも羽川さんの機嫌は一向に良くならない。それどころか、彼女は俺のサングラスを外すことに執着していた。
「あっ、ごめんね。拭くから貸してくれる?」
料理をしているように見せかけながら、彼女は手についた水をピュッピュッとサングラスに向けて飛ばしてくる。
子供かっ! とツッコんでやりたかったが、やめておいた。
これ以上機嫌を悪くされても、ただ困るだけだから。
「いえ……大丈夫です」
その後も、隙あらばサングラスを外させようと、羽川さんがさまざまな手段を駆使してくる。
その全てを、俺は華麗に回避していた。
ガンッ!
「出来たわよ!」
とんかつが盛られた皿を、テーブルに叩きつけるように置く羽川さん。
俺を見る目がめちゃくちゃ怖かった。
席に座り、湯気が立ち上るとんかつをじっと見つめる。生前の俺ならば、迷わず箸を伸ばすところなのだが、今だけは躊躇ってしまう。
「……冷めるわよ」
「は、はい……」
そう言われても、昨日の出来事がフラッシュバックして、中々箸がでない。
「出来立ての方が美味しいわよ」
「そ、そうですね」
そんなことは言われなくたってわかっている。
しかし、どうしても箸が出なかった。体が拒絶しているのだ。
「ねぇ、君……あたしに喧嘩売ってる?」
「そ、そんなことないですよ!」
「なら、早く食べなさい」
これ以上はダメだ。
羽川さんの目が完全に据わっている。
今すぐ食べないと、何を仕出かすかわかったものじゃない。
「い、頂きます……」
俺は覚悟を決めて、とんかつへと箸を伸ばした。
ごくりっ……。
きつね色に揚がったサクサクの衣を睨みつけるように凝視し、俺は息を止め、意を決して大きく口を開いた。
サクッ。
と、小気味いい音が口の中に響いた瞬間、
「おゔぅ゛ぇ゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛え゛ッッ!?!?」
強烈な生臭さが口の中いっぱいに広がり、俺は派手にリバースしていた。
刹那、無言でサッと席を立った羽川さんが、台所から包丁を取り出し、ズカズカとこちらに向かってくる。
「待って、お願いだからちょっと待ってください! ――ひぃぃっ!?」
――シュッ!
間一髪、俺は羽川さんの刺突を回避した。そのまま席を立ち、できるだけ彼女から距離を取る。
「君、お姉さんのこと馬鹿にしてるでしょ」
「いえ、そんなこと……」
「してるじゃない!」
「ひぃっ!?」
こ、怖い。
こんなの俺の知っている羽川さんじゃない。
「そりゃそうよね。28にもなって未だに独身なんだもんね。おまけに彼氏いない歴は早5年。学生時代の友人たちはみんな結婚して幸せな家庭を築いているってのに、何なの……この糞みたいな人生。……この間もね、同窓会で香織に会ったのよ。大学時代の友人。三人目がお腹の中にいるんですって。すごいわよね。あたしと同い年なのに三児のママなのよ。その香織が笑いながら言うの。千尋も早く結婚したほうがいいわよって。今から彼氏見つけて付き合って結婚ってなったら、たぶん30くらいでしょ? そこからすぐに子作りって大変じゃない? 年齢的なこともあるだろうし、急いだ方が言いわよ……だって。はは……ははは。
うっせぇんだよクソがァッ!!」
ガタンッ!
凄まじい迫力と恐ろしさに圧倒され、思わず後ずさりした。もしかしたら、羽川さんはコボルトロードよりも怖いかもしれない。
「で、あたしの作った料理は食べたくないってことでいいのよね? あたしのことお節介おばさんとでも思っているんでしょ!」
「お、思ってません!」
「嘘をつくんじゃないわよ! あたしはこの世で一番、嘘つきと浮気男が死ぬほど嫌いなのッ!」
「う、う、う嘘じゃありません!」
「なら食え。残さず全部食えッ!!」
包丁を首元に押しつけられ、食卓に座るよう促された。逆らうことはできなかった。
「何をしてるの? 君、お腹空いているのよね? さっきからグーグー鳴ってるじゃない!」
確かに、腹ペコだ。
空腹で、今にも倒れてしまいそうなくらい、お腹が空いていた。
しかし、どれほど空腹だとしても、腐った生ゴミを食べられる人なんていない。
「……っ」
無理だ。
箸でつかんだとんかつはとても美味しそうだが、どうしても口に入れることを体が受け付けない。
「宗ちゃん……」
しかし、食べなければ羽川さんを犯罪者にしてしまうかもしれない。
それは、それだけは絶対にダメだ!
「ご、ごめんなさい!」
席を立ち、俺はその場で土下座した。
ズガッ!
すると、床に、眼前に包丁が突き刺さった。
「!?」
顔を上げると、そこには鬼と変わってしまった羽川さんが立っていた。
もはや、ここまでだと覚悟し、俺はゆっくりとサングラスを外した。
「え……」
俺の変わり果てた瞳を見た瞬間、羽川さんは瞬きを忘れ、呆然と立ち尽くしていた。
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