第43話

『多希、どうした? お父さんの腹筋でも見るか?』

「それよりも、親父に相談したいことが」

『多希が相談? お父さん嬉しいよ。何?』

「結界維持装置のことで」

 電話の向こうで、父親が黙った。多希から言われるなんて、想像していなかったようだ。

「今いる場所の結界維持装置が解除されてしまって、結界が薄い場所なので困っています。保健所からは、業者でないと対応できないと言われ、業者は朝にならないと連絡ができなくて……普通の人でも結界維持装置のスイッチを入れて良いものか、誰にも訊けなくて」

 いつもは陽気な父親が、怖いくらい黙っている。

「あの、親父?」

『聞こえてるよ。多希からそんな話が出るとは思わなくて、びっくりしちまった』

「あまり、口外できる話ではないイメージがあるのですが、緊急でして、頼れるのは親父だけなのです」

『お父さん、そっちに行こうか? 今、どこにいるんだ?』

「蒼右森です」

 多希が答えると、父親の口が再び止まった。

「親父……ごめんなさい」

『ごめんなさいと言わなければならないのは、お父さんの方だよ。万能な結界維持装置を開発できなくて、ごめんなさい』

「おじさんが謝ることではありません」

『やっちゃん、いるのか!? 多希と一緒に?』

「ええ。たまたま出張先が近かったので、一緒にご飯を食べていました。今いる場所は、多希の仕事仲間が緊急で待機している介護施設です。屋外に置かれていた結界維持装置を解除していた人がいて、僕もたまたま目撃してしまって」

『やっちゃんがいるのなら、話しちゃっても良いか』

 奈直は、自分が部外者だと察したようで、多希から離れようとした。多希が黙って止める。

『結界維持装置のスイッチを入れたからといって、結界が復活するわけじゃないんだ。結界を先に張って、スイッチを入れる。そうすることで、結界の術式が保持される。その結界というのも、近くの結界と重ならないように術式を構築しなければならない。ラジオの周波数や、介護施設で使われるセンサーマットみたいに、混線しないようにしなくてはならない。そのために、結界維持装置の業者の中でも、その土地に合った結界を張る専門家が要る。ただ、点検をする業者や確認する従業員はいつも同じ人だと限らないから、結界維持装置に触れる人を制限しようとするとキリがないため、触れるを制限しなかった。いやしかし……俺にしてみれば、結界維持装置を屋外に置かれると、装置が劣化する原因になるからやめてほしいんだが……室内に入れると、お年寄りが触ってしまうのかな』

「それはあるかもしれません」

 四万津の裁判で、柘植弁護士は屋外の結界維持装置の映像を証拠として提出した。あの施設も、結界維持装置を屋外に置いていた。

『昔、荻野の先祖の中で呪術に長けた者は、瞬間的に自分の身を守るだけの小さな結界を張ることができたらしいが、その術式は受け継がれなかった。天下統一の戦に悪用されるのを恐れたからだ。と、まあ、結界維持装置は万能じゃないんだ。最初に気づかなかった俺が悪かった。申し訳ない』

「親父のせいではありません。教えてくれて、ありがとうございました。町全体に結界は張られていますし、ここは介護士もいます。俺自身はワクチンを接種っていますから、自分の身も守れます」

『お父さん、本当に何もできなくて、申し訳ない』

「おじさん、多希のことは僕が守ります」

「お兄ちゃんは、結界が堅固なホテルにさっさと戻りなさい……親父は、母ちゃんを守ってあげて下さい」

『ああ。お母さんのことは心配するな。多希、くれぐれも無茶をするなよ』

「わかっています。おやすみなさい。それと……メール、ありがとうございました。母ちゃんにも、伝えといて下さい」

『わかった。おやすみ』

 電話を切り、ナースコールやセンサーマットの反応音が止んだことに気づいた。

「皆に言っといたよ。今日はあたしが夜勤だって。静かになったでしょ?」

「看護師さん、ありがとうございます」

 なぜか保希がお礼を言った。前髪を搔き上げると、看護師が「荻野保希!」と黄色い声を上げた。

「ここの高齢者のことを、どうかよろしくお願いします……僕はホテルに戻るけど、多希は……訊くまでもないね」

 保希は多希の頭を撫でようとしたが、手を引っ込めた。

「お兄ちゃん……色々ありがとう」

「お礼を言われるようなことは、していないよ。多希、くれぐれも無茶はしないで。皆の大切な、多希なんだから」

「はいはい、政治家の先生は、安全なホテルにお帰り下さいねー」

 奈直が保希を追い出してしまった。

「あなたも戻ったら……まあ、戻らないでしょうね。看護師さん、この意地っ張りに空き部屋貸しても良いですか?」

「良いよ。リネンは置いてあるから、寝ていきな」

「俺も夜勤……」

「そもそも、あなたがいる意味は無いんですからね。足を引っ張らないで下さいよ」

「辛辣!」

「でも、結界維持装置のこと、知らせてくれてありがとうございました。知らないよりはましです。はよ寝ろ」

 奈直に、空き部屋に押し込まれ、多希はベッドを借りて寝ることにした。



 あぐりが起きる1時に自分も起きようとしたが、目が覚めたら4時になろうとしていた。周りは、静かだ。何も起こらないようで、良かった。

 ホールに向かうと、あぐりはとっくに起きていた。

「多希さん、おはようございます。朝まで寝ていて良かったんですよ」

 あぐりは眠そうだ。仮眠の3時間で過重労働の疲れは取れないだろう。

「ふたりを働かせておいて、寝ていられないですよ」

「あなたがしっかり休まなくてどうするんですか。今日も橘子さんのとこで看護業務をやるんでしょう」

 奈直が、とろんとした目で容赦なく言ってきた。量の多い髪は、手櫛でまとまらない。

「はいはい、ヘアゴムを貸して下さい」

「ヘアゴムって、言いにくいでしょう」

「ゴムと言ったら誤解したのは誰ですか」

「史人さんです」

 多希が奈直の髪を梳き、ヘアゴムとヘアピンでハーフアップに整える。

「多希さんと奈直くんは仲が良いですね」

「そうだよ」

「誤解です」

 奈直が肯定し、多希は否定した。

 廊下の突き当りのカーテンが、ふわりと揺れた。

 窓が開いていたかな、とあぐりが向かおうとしたが、足を止めた。

 カーテンの前にいるのは、茶トラ柄の虎のような生き物。ハナミネコだ。

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