第44話
「なんで、今なの……これから起床介助を控えているのに!」
あぐりが声を荒げると、ハナミネコは壁をすり抜けて居室に入ってしまった。
奈直が、ホルスターから麻酔銃を抜く。魔法陣のような術式が発動したのが、多希には見えた。奈直はためらいなく麻酔銃の引き金を引く。
「ご存知だと思いますが、麻酔銃は壁や人もすり抜けてハナミネコのみ撃てるんです」
奈直から、さらりと語られる豆知識に、多希は空気を読まずに突っ込みを入れた。
「知らないよ! 多分、うちの病院の看護師は誰も知らないです!」
「え⁉ 看護師さんは知らないんですか?」
あぐりが逆に驚いていた。
「あーちゃん、驚くとこ、そこですか!」
「あ……ごめんなさい。保健所には今、自動通報しました。とにかく、ハナミネコを追います」
「あーちゃん、待って。あーちゃんは、コールやセンサーが鳴ったら、対応をお願い。俺がハナミネコに集中する」
「了解」
「あの、俺は……」
多希が訊ねると、奈直は舌打ちをした。邪魔者だとはわかっています。すみません。
「……ご利用者様が不安になっていたら、なだめます」
「多希さん、それが一番助かります。そのときはお願いします」
あぐりもホルスターから麻酔銃を抜き、ハナミネコが向かったと思われる居室に行った。ふたりの背中を見つめ、多希は置いてけぼりを食らった感覚をおぼえた。ふたりとも、格好良い。高齢者の夜を守る戦士だ。
「なんだ、お前! まだ夜中だぞ!」
ご利用者様の怒号が、ホールにまで届いた。
「虎か⁉ まさか、ハナミネコ……!」
ご利用者様の声が止まった。直後、壁をすり抜けてハナミネコが廊下に出てくる。
「あーちゃん? 何かあったの?」
目をこすりながら、小栗アグリさんが廊下に出てきた。ハナミネコがアグリさんを見つけ、長い尻尾を振り振り、ゆっくり近寄る。
「あらま、大きな猫ちゃん」
「アグリさん!」
あぐりが居室から出て、アグリさんに駆け寄る。アグリさんを抱きしめると、ハナミネコに背中を向けてしまった。
「あーちゃん!」
多希は、あぐりとアグリさんに駆け寄る。
あぐりはおそらく、ハナミネコの爪や歯を通さない特殊素材のインナーを着用しているはずだ。だからといって、ハナミネコに傷つけられるところを見過ごしたくない。なぜ、命の危険が迫っているのが俺じゃなくて彼女なのだろう。なぜ俺は、こんなときにも無力なのだろう。ハナミネコに対抗できる荻野の血筋なのに。俺は。
多希はハナミネコに向けて手を伸ばした。言語とも数式とも呼べぬものが頭の中を駆け巡る。普段、町中で結界を見ているときに読んでしまいそうなものが、自分の頭の中を駆け巡っている。先程の、父親の話を思い出した。荻野の先祖の中で呪術に長けた者は、瞬間的に自分の身を守るだけの小さな結界を張ることができたらしい。
いちかばちか。多希は、頭の中を駆け巡るものを、言語とも数式とも呼べぬものを、口の中で唱えた。刹那、魔法陣のようなものが出現し、ハナミネコを阻む。
「え⁉」
居室から出てきた奈直が、大きな目を見開いた。見られてしまった。
「わかんないです! やってみたらできました!」
「あ、はい」
奈直は曖昧に返事をし、我に返ってハナミネコに麻酔銃を向けた。光線を撃つ前に、ハナミネコが逃げてしまう。
「アグリさん、もう少しお部屋で休んでいて下さい。まだ4時なんです」
「まだ? もう少し寝るわ」
あぐりに付き添われ、アグリさんは居室に戻った。
ハナミネコは壁をすり抜け、またどこかの居室に入ってしまう。多希は何も考えずにハナミネコを追った。
「多希さん、危険です!」
あぐりは止めようとしたが、ナースコールで呼ばれ、そちらに行かざるを得ない。
「まったく……果敢にも程があるな」
奈直も、ハナミネコを負う。
多希は、空き部屋に入ったハナミネコを追い、虎のような駆体にとびついた。
「部屋間違えた⁉」
壁の向こうから、奈直の声が聞こえた。
麻酔銃は、壁も人もすり抜ける。持ち主はサーモグラフィーでハナミネコを認識できる。だとしたら。
「奈直! 撃て!」
多希は、暴れるハナミネコに抱きつきながら叫んだ。
「承知!」
壁をすり抜けた光線が、ハナミネコに命中する。2発。3発。ハナミネコは、くたっと脱力した。多希はハナミネコから離れる。
「勝手に何してくれるんですか」
奈直が部屋に入ってきた。
「死ぬときは一緒です。勝手に行こうとしないで下さいよ」
奈直は麻酔銃をホルスターに収め、袖で顔を拭う。
「奈直くん……ごめんなさい」
「本当ですよ、お兄ちゃん」
奈直は多希にしがみつき、顔をうずめた。
「良かった……生きてくれて、良かった……」
多希は奈直の背中をさすり、大きく息を吐いた。
「こちらこそ、です。奈直くん、生きてくれて、良かった」
「あの、水を差すようですが……」
ナースコール対応から戻ってきたあぐりが、遠慮がちに声をかける。
「これから、起床、トイレ、おむつ、食事介助など、朝のうちにやることがたくさん残っています。本当の意味での戦いは、これからです」
「がってん承知です」
奈直は顔を上げ、こぶしを突き上げた。整った顔に疲労の色がにじみ出ているが、大きな双眸は介護従事者の矜持を感じさせる。
夜が明ける。今日も生きている。
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