第41話

 窓から施設シニアの建物に入り、内側から窓を施錠した。故意に窓を開けていたことを隠すように、エアコンから温風ががんがん排出されていた。隙間風で勘づかれないよう、あらかじめ点けていたのだろう。

 多希は空き部屋をから、明るい廊下に出た。廊下の両側に、居室の引戸がある。廊下の突き当たりは食堂のようなホールが見える。ホールは照明を少し落としているが、複数の音で賑わっていた。

 ナースコールや、センサーマットのコール音。ナースコールは止むことをしらず、センサーマットの反応音は、少なくとも3種類の音楽が同時に鳴っている。

「あっ!」

 体がぶつかり、相手がよろけた。後大腿部に、静電気のようなものを感じ、多希はわずかな痛みをおぼえた。ホルスターに収められた介護士の麻酔銃から、小さな魔法陣が見える。介護士の麻酔銃は本人しか触れないと聞いたことがある。他の人が触れると、術式が発動し拒絶反応が起こるようだ。

「どっから入ってきたんですか! あーちゃん、不法侵入者発見! 橘子さんに連絡するよ!」

「奈直くん!」

「どこをほっつき歩いていたんですか。こんなくそ忙しいときに」

「ごめんなさい。差し入れあるから、許して」

「高くつきますよ」

 ホールのテーブルに、いがめんちと、いちご煮の炊き込みご飯のおにぎりを置かせてもらう。

「どこから入ってきたんですか!」

 あぐりも、やはり驚いている。空き部屋の窓が空いていたことには気づいていなかったようだ。気づかないように細工されていたのだから。

「あーちゃん、施設長と保健所に連絡は取れますか?」

「電話はかけられるけど、施設長につながるかどうか……」

「お願いします。俺達は、められました。結界維持装置が解除され、この施設は無防備な状態です。ハナミネコが侵入しやすいように空き部屋の窓が開けられていました」

「は? 馬鹿じゃないの?」

 奈直の声が裏返る。ナースコールもセンサーマットも止んだ束の間の時間だった。すぐにナースコールが鳴り、奈直が該当の居室に向かう。

「施設長に電話します。判断を仰がないと、勝手に保健所に連絡できないので」

「お願いします」

「了解です」

 あぐりは、しばらく固定電話で呼び出ししていたが、首を横に振って受話器を置いた。

「施設長、出ません。留守電にも入れましたが……」

「待つしかないですね。あーちゃん、いがめんちとおにぎり、食べて下さい」

「ありがとうございます。お腹空きました」

 あぐりがおにぎりに手を伸ばそうとしたとき、センサーマットの反応音が軽快に鳴り出した。

「ごめんなさい。行かなくちゃ」

 入れ替わりに、奈直が戻ってくる。テーブルに置いたメモ用紙に書き物をして、続けて鳴ったセンサーマットの居室に向かう。

 なんだ、この忙しさは。こんなにコールが多い夜勤を、多希は体感したことがない。

 テーブルに置かれた奈直のメモを、何気なく見てみた。居室の番号やご利用者様の苗字、時間が走り書きされている。

「お兄ちゃん、邪魔」

 奈直が戻ってきて、メモに書き足した。

「やば。もう、おむつ交換の時間」

「戻りました。奈直くん、少し休んで。おむつ交換の時間は少しずらそう」

 あぐりも戻ってきて、タブレットの画面を何度かタップした。奈直のメモを見ながら、タブレットに何か入力してゆく。

「あーちゃん、この施設はすぐにでも訴えた方が良い。早番から続けて夜勤業務の予定を組まれているなんて、有り得ない」

 十分丈インナーに制服のポロシャツが馴染む奈直は、ペットボトルのミネラルウォーターを一気飲みして、いがめんちとおにぎりを一緒に頬張った。職業柄らしい早食いである。

「それに、こんなにコールとセンサーの数に対して、夜勤ふたり体制は、対応が不可能だ。現に、全てのコールとセンサーに対応できていない」

「うん、でも、今はやるしかないから……」

 奈直のメモを一行ずつ消しながら、あぐりはタブレットに入力する。タブレットは業務日誌で、奈直のメモは対応したご利用者様と時間の記録だ。奈直は緊急要員で夜勤業務を行っているが、タブレットでご利用者様の情報を見るわけにはゆかないのだ。

「私のおじいちゃんとおばちゃんも、こういう施設に入所したんだけど、今はふたりとも重度の肺炎で入院しているの。私が入院費用を工面しなくちゃ。だから、今は頑張るの」

 気丈に振る舞っているが、あぐりはもう限界だ。

「あのときよりも、ずっとましだよ。お父さんとお母さんが、野良猫と間違えてハナミネコの子供を飼おうとして引っかかれて、ウイルスに感染したとき。ワクチンは接種したけど、抗体ができなかった。保健所の出入りを見ていた近所の人から外からバリケードをされて、お父さんもお母さんも亡くなるまで一歩も外に出られなかった。認知症状が悪化して暴力を振るうお父さんからお母さんをかばいながら、徘徊するお母さんの相手をするの、大変だった。それよりも、今は、ずっと、まし……」

 そのとき、インターホンが鳴った。あぐりはまたナースコールに呼ばれ、代わりに多希が応答する。昼間のおばちゃん看護師と、保希が玄関前にいた。

「おに……大丈夫でした?」

 人前でお兄ちゃんと呼ぶわけにはゆかず、呼称は濁した。

「あの人達には、逃げられてしまった。警察署の人に、あの動画を見せて相談したけれど、取り合ってもらえなかった。力になれず、申し訳ない」

 保希は悔しそうに、申し訳なさそうに、目を伏せる。

「看護師さんは?」

「グループトークで、畠野さんが結界維持装置を解除したって話題になって……そんなことはないと思うけど、居ても立っても居られなくて、様子を見に来ちゃた」

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