第39話
時刻は21時になろうとしていた。地方の店もこんな時間までやっているとは思わず、三味線を聴きながら料理に舌鼓を打ち、長居してしまった。保希に苦手意識がなくなったわけではないが、人の目があるせいで保希が若干大人しいことと、初めて保希と対等に話した気がしたこともあり、これまでほど怖いと感じない。
「やっぱり、多希は可愛い」
やっぱり、底しれぬ愛情が怖い。保希が、とろけそうに目を細める。
「でも、僕の中では子どもの頃の多希のままなんだろうな、とちょっと感じたよ。大人になった今の多希は、僕と違うものを見て、違う人と関わって、視野や視界や感性も多分違う。思っていたのと良い意味で違う多希と話しているんだな、と、今、猛烈に感動――」
多希のスマートフォンに怒涛のメッセージラッシュが到来し、多希は、いがめんちを頬張りながら雑音をシャットアウトしてメッセージの確認を始める。
「多希って、食べるスピードが速いよね……? 職業柄?」
「ちったあ、黙っとれ」
何を言われたのかわからないが静かにしてほしい旨を伝えると、「
『多希さん今どこにいるんですか! 病院はとっくに出たというのにホテルに戻ってきてないらしいじゃないですか!』
「愛美さん⁉」
珍しく愛美が声を荒らげていた。多希は慌てて廊下に出る。愛美の勢いは、姉の亜依子に似ていた。やはり、姉妹だ。
「すみません。ちょっと、用事ができてしまい、まだ戻れていないんです」
『今夜中に戻れますか? 橘子さんも心配していらっしゃるんですよ』
「本当に、申し訳ありません。橘子さんが大変なときなのに」
『うん、でもあれはご自分で決めたようなものですし、橘子さんならあの芯の強さで批判なんか跳ね返しそうですよ』
「辞任、しないですよね……?」
『そればかりは、何とも』
「介護士試験を受けた看護師にしてみれば、まだ橘子さんには政策をつづけていればほしいです。ハナミネコに関して、まだ対策は不十分なんです。国の予算とかの関係もあるかもしれませんが」
『国民の声として、伝えておきますね。多希さん、お気をつけてお戻り下さい。奈直くんにも連絡してあげて下さいね。多希さんのことを一番心配していましたから』
愛美は穏やかな調子を取り戻し、でんを切った。
史人からも安否を心配するメールが来ていた。橘子からのメールが紛れ込んでいたのに気づいたときは、心臓が止まるかと思った。直接連絡を取りたいほど心配されていたのだ。自分の今後を心配しなくてはならない立場なのに。
肝心の奈直からは一切連絡が無い。多希から電話をかけてみることにした。
「奈直くん、多希です。ご心配をおかけして、申し訳ありません」
すぐに応答があったが、返事はない。電話の向こうでは、けたたましいコール音が響いている。
『あーちゃん、ごめん! 面倒臭い人から電話が来てるんだ』
「誰が面倒臭い人ですか」
『奈直くん、大丈夫だよ。トイレ介助、行ってくるね』
「あーちゃん? ふたりとも、今どこにいるんですか?」
電話の向こうの状況が、わからない。
『で、なんすか。くそ忙しいときに』
奈直が投げやりな口をきく。本当に心配していたのか、こいつは。
「奈直くん、今どこですか?」
『「いらせ村」です。夜勤の予定だった人が欠勤してしまって、あーちゃんと一緒に夜勤をしています。一応、厚生労働省大臣の権限で、新人介護士の指導という扱いです。何ですか、この施設。入居者様30名に対して、センサーマットを使っているかたが10名。自立して居室で過ごせる方が5名。夜間のおむつ交換が必要なかたが21名。有料老人ホームで夜勤2名体制でまわせる自立度ではないですよ』
「え、え、ちょっと待って」
『くそ忙しいんで、切りますよ』
「俺のことを、心配してくれていたと聞きましたが」
『誰があんたの心配なんかするかよ。今は「いらせ村」の入居者様が一番心配です』
「あ……良かったです」
いつでも高齢者優先。いかにも介護士らしい。
「多希、どうした? 何かあったのか?」
保希が、ぴとっと体を寄せて顔を近づける。
『あー!!』
電話の向こうで、奈直が叫んだ。
『あのときのド変態! お兄ちゃんから離れろ! お兄ちゃんを食い物にするな!』
「へえ。多希は、お兄ちゃんと呼ばれているんだ。妬いちゃうな」
『そうですよ。あんたに渡すもんか。俺とお兄ちゃんは、生死を共にする約束をしたんですから』
「奈直くん! そんな約束、してませんからね!」
「多希……電話の男、頭大丈夫かな。だいぶ多希に執着しているみたいだが」
『あんたの方が凄まじいからな。ホテルに連れ込んで手錠代わりのバングルを着けさせて、まだ一緒にいるんですか。国会議員て頭大丈夫ですか』
「奈直くん、言い方!」
『お兄ちゃんは、どっちの味方なんですか。俺、泣いちゃう』
「泣かないで下さい! 今、そっちに応援に行きますから!」
多希は通話を終了した。
「……あの、あの子は」
「知っているよ。昨日、エレベーターにいた男だろう。ショッピングモールにもいたね。多希に懐いているのは、一度見ただけでわかるよ。弟みたいだった。悔しいけど」
悔しいと言いつつ、保希は余裕の笑みを浮かべる。
「『いらせ村』だっけ。送るよ」
「ごめん……助かります」
「多希のためなら、喜んで運転手になるよ」
保希はいつの間にか会計を済ませ、いちご煮の炊き込みご飯と、いがめんちをテイクアウトしてくれた。
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