第38話
待ち合わせは、海の近くの物産館の前にした。物産館はすでに閉館しているが、敷地は街灯で明るく、駐車場は営業している。
多希が徒歩で物産館に着き、5分しないうちに敷地に車が入ってきた。
車を駐めてもエンジンはかけたまま、相手が運転席から降りてきた。
「多希、どうしたんだ? 上着も着ていないじゃないか。寒いから、車に入りなさい」
多希が呼び出した相手は、
「……お兄ちゃん、俺」
そうだ。この人は、こんなにも俺を気遣ってくれているのだ。何も怖がることは無いのに。
「俺は、あなたのものになります」
保希が目をしばたかせた。だが、嬉しさや喜びの表情には見えない。街灯はあるが充分とはいえない暗さのなかで、保希は困惑しているように見えた。
「その代わり、お願いがあります。四万津
多希は震える手で自分のネクタイを引っ張って緩ませ、解こうとした。その手を保希が止め、首を横に振る。保希は、今にも泣きそうな表情だ。
「なんで、止めるんですか。あんたに抱かれてやるって言ってるんですよ」
顔を近づけ、唇を重ねようとすると、大きな手に顔を掴まれて拒まれた。
多希が怯んだ隙に、保希は多希を抱きしめ、背中をさする。まだ春の足音が遠い北国の夜風は、容赦なく服の隙間から肌を刺す。ぐう、とふたりの腹が鳴った。
保希が運転してきたのは、レンタカーだった。助手席に多希を乗せて向かったのは、観光客向けの料理屋だ。蒼右森の伝統芸能である三味線を聴きながら郷土料理を売りにしている。
兄弟かと店員に訊かれ、保希は朗らかに否定した。店員が離れた隙に、多希に耳打ちする。
「そんなに似ているかな」
「俺はたまに言われます」
一度当たり散らしたせいか、難なく話せる。
保希はハンドルキーパー、多希は仕事を抜けてきているため、ふたりとも飲み物はソフトドリンクを注文した。
「四万津というのは、今日のニュース速報に出ていた人だね。裁判で無罪になったのに、検察は控訴の意向を示している」
「……はい」
改めて、多希が交換条件に挙げた話題になる。
「政治のプロは、どうお考えですか?」
「政治のプロなんて言い過ぎだ。でも、無罪の証拠が出たのに、あれはやり過ぎだと考えている。多希は今、厚生労働大臣の佐々木先生のところにいるんだろう。あの人に頼んでは……」
頼んではいかがかな、とでも言おうとしたのだろうが、保希は口をつぐんだ。
「すまない。あの人は今、矢面に立たされているんだった」
「そうなんです。橘子さんは曲がったことが嫌いな感じなので、自分の権力を使ってでも控訴を止めようとしそうな気がします。それもまた世間から非難されそうで、辞任や辞職になってしまうと、ちょっと、医療現場としても……」
「確かに、あの人は正面突破したがる傾向にある。だから、知事から煙たがれるんだ。羨ましい……眩しいくらい正しいことをしているが、それがまかり通るほど政界は綺麗じゃないんだ」
保希が勝手に注文した、いちご煮という汁物が運ばれてきた。
「四万津さんは、俺を助けてくれた人なんです。俺は
保希は、難しい顔で多希の話を聞いていたが、料理が運ばれてくると、食べなさい、と親のように多希に薦めてきた。多希が、いがめんちや海鮮丼を口にすると、少し安堵したように話を再開する。
「ここだけの話だけど、佐々木先生によるハナミネコ対策や介護従事者への入れ込み方は、政界ではあまり評価されていないんだ。反対派である蒼右森県知事があんな言い方をするのも、わからなくはない。でも、今回の四万津氏の裁判の一件で、佐々木先生のてこ入れがなければ、ハナミネコはもっと猛威を振るっていたかもしれないし、介護士が働く環境は今以上に悪かったかもしれない。厚生労働省の管轄は、僕が考えていたよりも厳しい状況にある。それに、多希も苦しんでいる。多希が苦しむ世の中を黙認するなど、僕の自尊心が許さない」
保希は、りんごサイダーで自分に酔っていた。
「僕は、多希に救われたんだ。20年前、荻野の予言が嘘だと言われ、学校でいじめられていた。大人達が本家で話し合いをしていた日、一晩多希を預かったことがあったね。家にあった焼きそばの生麺と、カット野菜と、豚肉の代わりにウインナーで焼きそばをつくったら、美味しいって多希は食べてくれた。僕はそのとき、多希に救われたんだ。こんなに純粋な子が生きやすい世の中を僕がつくりたいと思った。その思いは、今も変わっていない。多希は、世間擦れの無い、まっすぐな人に育ってくれたみたいだ。だからこそ、自分を犠牲にしてまで駆け引きをしてほしくない」
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