第37話
頂いていた名刺は、携帯していなかった。その代わり、スマートフォンでウェブ検索をしてホームページを探す。
「つげ法律事務所」の代表番号に電話をすると、目的の本人がすぐに出てくれた。緑埜多希です、と名乗ると、相手はすぐに思い出してくれた。
『あの多希くんですか! お久しぶりです』
下町情緒溢れる界隈にひっそりと建つペンシルビルと、たぬき顔の
『多希くんがお電話をくれたということは、四万津さんのことですよね?』
「そうです。お忙しいのに、申し訳ありません」
『多希くんのせいではありませんよ。それに、あなたや奈直くんにも話したいと思っていたんです』
柘植氏の声は忙しそうだが、話したくて仕方ないという風である。
「四万津さんは無罪なんですよね? それなのに、また裁判をやる、と。そんなことがあるんですか?」
『検察官も控訴はできるんです。でも、僕の経験では今まで皆無でしたし、なかなかテレビでは取り上げられないでしょう。今回は、何と言うか……無理矢理な印象です』
四万津が職場である介護施設の結界維持装置を故意に解除して、ハナミネコを侵入を許して入居者をウイルスに感染させて殺そうとした。それが検察の見解で、殺人未遂による無期懲役を求刑していた。それに対し、弁護側である柘植は、四万津に殺意は無く結界維持装置を解除した証拠も無いとして無罪を求めていた。
四万津が結界維持装置を解除していないという証拠が出たことで、四万津の無罪は確定した。介護施設とフェンスを隔てた隣のスーパーマーケットの駐車場の防犯カメラに、結界維持装置をいじる老人と、それを指さして指示する様子の、車椅子に乗った老人が映っていたのだ。結界維持装置が解除されたと言われる時間と一致する。結界維持装置をいじっていた老人は、日常動作に問題はないが、認知症がかなり進行しており、自分のやったことがわかっていない。指示した老人は、四万津を殺人未遂だと訴えた人だった。防犯カメラの映像では、終始四万津の姿は映っていなかった。
四万津が結界維持装置を解除していなかったことが立証され、四万津は無罪が確定した。
『検察の言い分では、あの映像ではあのタイミングで結界維持装置を本当に解除した証拠が無く、指示したご老人も自分は指示していないと主張しているそうです。四万津に殺意が無かったことは証明されないため、殺人未遂を否定するのは難しい、と』
「無理矢理ですし、目茶苦茶じゃないですか」
胸糞悪いと何度思ったか。また思ってしまった。
『これは噂ですが……今回の裁判をきっかけに、国は介護業界の縮小を図るという話も小耳に挟みました。それと、佐々木橘子大臣を辞職に追い込むのではないかと……あ、多希くん。今、テレビを見ることはできますか?』
柘植に訊かれたのと同時に、史人から「きっこさんが会見するから一緒に見よう」とメールが来た。多希は史人の病室に向かい、
『大臣、蒼右森県知事と一緒に介護施設を見学されたとのことですが、大臣から見た介護施設はどうだったんですか?』
記者から質問を受ける橘子は、にこやかな表情を一切見せず、凛としていた。
『介護士のかたは真面目に、矜持を持って仕事をされていました。施設長も施設のことを真剣に考えてくれていましたし、ヘルパーさんもご利用者さんの目を見て丁寧に接していらっしゃいました』
訪問の間は人当たりの良い表情をしていた橘子は、もう優しい顔をしていない。わたくしが頑張らなくては、と呟いていたことを、多希は思い出した。
『では、知事が嘘をついているということですか?』
別の記者が質問する。
『見る人の数だけ感想はあると思います。介護士の働く環境はまだまだ整備の途中です。厳しいご意見も受け入れて改善してゆく所存です』
『先程の裁判のニュースはどう思われますか? 控訴の判断は間違っていると?』
『被告人がやっていないのなら、控訴は妥当とは言えないでしょう』
『はっきり仰って下さい。控訴は間違っているとお考えですか?』
「見てられない」
史人が呟いた。
「同感です」
多希も目を背けたくて仕方ない。だが、目を逸らすのも難しい。
『大臣ご自身の進退はどうお考えですか?』
ついに、あの質問が出た。
『わたくしの進退は』
「無理無理無理! 橘子さん、ごめんなさい! 俺、見てられない!」
史人がギブアップし、スマートフォンを伏せた。
「史人くん、しっかり休んで下さい。あなたは、高齢者と介護士の命を救いました。今日は、それを誇りにして下さい」
「うう……多希くん。気をつけて戻ってね」
史人は枕に顔を突っ伏して、多希に手を振った。多希は手を振り返し、柘植との電話をつなげたままにしてしまったかもしれないと思い、自分のスマートフォンを見た。通話は、橘子の会見の前に自分から切っていた。
SNSでは、橘子の会見が炎上していた。辞任、辞職、控訴もみ消し……憶測と誹謗中傷が飛び交う。このままでは橘子の立場が危うい。それに、四万津もまた裁判にかけられて、無理矢理有罪にされてしまうかもしれない。
病院を出ると、外はすっかり日が落ちていた。多希はスーツのポケットを探り、皺の寄っている名刺を出した。
自分はいつ死んでも構わない。今もその気持ちは変わらない。だったら、誰かの役に立ってから死のう。自分はどうなっても構わない。
多希は震える手で名刺の番号に電話をかけ、声を絞り出した。
「もしもし……お兄ちゃん? 多希です。今どこにいます? 今すぐに会いたいです」
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