第35話

 あぐりをかばって背中から熱湯を浴びたのは、史人だった。

 一瞬の沈黙の後、怒号がとぶ。

「俺を殺そうとしたな!」

 あぐりが守ろうとして車椅子を押し出した、老人だった。握りこぶしであぐりを殴ろうとする。

「ご……ごめんなさい!」

 あぐりは、四つん這いになって熱傷に耐える史人に声をかけたが、老人から「お客様を無視するのか!」と再び怒鳴られ、ぽこぽこ叩かれる。

「ごめんなさい! 申し送りで、カウンターの端に薬缶を置くように畠野さんから指示が出ていたので……」

 新人らしい厨房職員が、制服のポケットから折り畳まれたプリントを出して施設長に見せる。その隙に、多希は史人に駆け寄った。

「史人くん、立てますか? ……すみません! シャワーをお借りします!」

 幸い、史人はスーツを回収して着ていたが、肩から脇にかけて大きく裂けていた。車椅子に引っかかったときに裂けてしまったらしい。そこから熱湯が入ってしまった可能性もある。浴室のシャワーを借りて、患部を冷やしながら状態を確認する必要がある。

「浴室はこっちよ!」

 施設のおばちゃん看護師が、浴室に案内してくれた。

「職員の皆さん、ご利用者様が怪我をしていないか確認をお願いします! 手が空いているかたは、床を拭いて下さい! 橘子……先生、申し訳ありませんが、救急搬送キュウハンの可能性も視野に入れて下さい! あーちゃんは落ち着いて! 自分のせいじゃないからね!」

 立場とか考えずに、多希は指示を出し、史人を連れて浴室に向かった。

「冷たいけど、耐えて下さい!」

 冷え切った浴室でスーツを脱がせ、ワイシャツの上からシャワーの水をかける。もしも皮膚が衣服に張り付いてしまっていたら、剥離しかねない。

「史人くん、本当にごめんなさい」

 多希が言うと、史人はうなりながら首を横に振った。史人の首のつけ根も、赤くなっている。

「襟首から入っちゃったわね」

 看護師が呟いた。多希も同じように見た。濡れたワイシャツの上から、肩から脇にかけても赤くなっているのが見える。スーツの裂けていた部分だ。

「ごめんなさい。あたしが縫う暇がなくて」

「業務をしながら縫い物をするのは難しいでしょう。俺も、デイで働いたことがありますから、そんな印象です」

 暇な時間はあったと思うが、多希はとりあえず共感のふりをした。

「それはそうと、病院で診てもらうのが無難だと思うのですが」

「あたしもそう思う。でも、施設長が何と言うか。今回だけは、畠野さんはめられたと思うの」

 看護師は、あぐりの肩をもった。

「だって、畠野さんはここに就職してから日が浅くて、厨房の職員さんと話したことがないもの。実習生だったときも、厨房にはノータッチだったわ。それなのに、畠野さんが指示を出したなんて、おかしいわ」

 今更かよ、と多希は言いそうになった。

「多希さん、史人くんはどうですか⁉」

 愛美が様子を見に来た。

「愛美さん、ちょうど良かったです。病院で診てもらおうかという話をしていました」

「かしこまりました。救急車を呼びますね」

 愛美が自分のスマートフォンを出したとき、施設長が入ってきた。

大事おおごとにしないで下さい! 看護師さん、未使用の軟膏があるでしょう? それを差し上げて下さい。まったく……畠野さんはどこまで迷惑をかけるのやら」

「ちょっと、施設長」

 看護師が大きく溜息をついた。

「あなたはよく頑張っているわ。でも、今回は畠野さんのせいじゃない。あの子を責めないで。それに、このお兄さんは病院に連れて行かなくちゃ駄目。看護師ふたりの判断です」

 それを聞いた施設長は、黙って多希を睨みつける。恨むのは、ベテランのおばちゃん看護師ではなかった。

「畠野め……覚えておきなさい」

 施設長はきびすを返し、ホールに戻る。

「多希さん、ごめんなさい。ちょっと離れていました。先生に話したところ、救急車を呼んでほしいって」

 施設長と看護師が睨み合っている間に、愛美は橘子に話してくれていた。仕事が早い。

「愛美さん、ありがとう」

 多希はシャワーを持ちながら冷水を浴びてしまい、スマートフォンを取り出すことができない。愛美のスマートフォンを借り、愛美に持ってもらいながら救急隊に状況報告する。患部が背部であることから、ストレッチャーで搬送するのが無難だと判断してもらい、救急搬送してもらえることになった。

「多希さんが救急車に乗って下さい。私は後から合流します」

「わかりました。……史人くんのこと、本当にごめんなさい」

「いいんです……怪我をしてしまったことは良くないけど、ご老人も畠野さんも、火傷をしなくて良かったです。私が史人くんに代わってあげたい気持ちですが」

「俺もです。でも、他の誰かが火傷をしていたら、史人くんも、その人と代わってあげたいと思っていたでしょう」

 史人は痛みが和らいだようで、息を吐いた。

「……嫌じゃないぜ。多希くんの水攻め」

ねぎらいに、背中を叩いてあげましょうか」

「やめて下さい。ごめんなさい」

 冗談が言えるほど元気なのか、心配をかけたくなくてわざと言っているのか、定かではない。

 救急車に乗る直前、奈直が不安そうな顔をした。

「奈直くん、皆さんのことは頼みましたよ!」

 救急車のドアを閉めてもらい、病院に向かう。と

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