第34話

 噺が終わり、奈直が深く礼をした。出囃子は無いが、拍手が起こる。閉じた扇子の代わりにボールペンを、手拭いの代わりにハンカチを用いて、よく一興できたものだ。多希は感心した。肝心の多希は、点滴の滴下速度を見誤り、あぐりの点滴がまだ終わらない。

 奈直くん、ごめんなさい。ジェスチャーで謝ると、奈直は頷いて椅子から降りた。

「じゃあ、次は体を動かしましょうか。キーボードもありますし、ちょっと演奏しますね」

 奈直はキーボードをテーブルに出し、電源を入れて音を出した。まさか、と多希は思ったが、まさかだった。奈直はラジオ体操を演奏し始めた。

「アグリさん、体操ですって。やりましょう」

 あぐりがアグリと呼び、多希は驚いてしまった。

「このかた、小栗アグリ様。体操とか、踊るのが好きなんです。認知症はありますが、優しい人です」

「あーちゃんが、やさしいんだよ!」

「そっか、そっか。あーちゃんが優しいのが、わかるんですね」

 多希はアグリさんの方にも耳を傾ける。デイサービスに勤めていた頃を思い出し、懐かしくなった。

「そうしたら、あーちゃんにはしっかり休んでもらって、元気になってもらわなくちゃですね」

「そうなの。あーちゃんはがんばりやさんなの」

 アグリさんは、畠野あぐりを、実の孫のように褒める。

「あーちゃん、女学生のときから、きてくれてたの。なつまつりで『お祭りマンボ』やったのよ。鳴子をもって、みんなで」

「懐かしいですね。あ、女学生というのは、短大の実習です」

 アグリさんと話しているうちに、「あーちゃん」の方のあぐりは、声に明るさが出てきた。

 そろそろラジオ体操が終わる。点滴は終わらない。

 「いらせ村」の職員は、ご利用者様のトイレ介助以外は自分から何かやろうとしない。ご利用者様と一緒にラジオ体操をやっているだけましだ。

「アグリさん、俺は少し離れますが、点滴に触らないで下さい。あーちゃんも、滴下が終わるまで抜かないで下さい」

 思いついたことがある。多希は奈直とバトンタッチでキーボードに向かい、奈直には、職員に協力してもらって鳴子を配ってほしいとお願いした。

「高くつきますよ?」

「望むところです」

 多希は、自分は口も性格も悪いと思ってしまう。思わず、にっと笑ってしまった。

「職員の皆さんにも、踊ってもらいましょう」

 奈直は、儚げに微笑んだ。

「良いですね」

 笑みは上品だが、声色に腹黒さが垣間見えた。

 奈直が鳴子を配っている間、多希はキーボードを軽く弾いて手を馴らし、ホールを見回す。施設長は相変わらず、橘子と知事に泣きながら何かを訴え、橘子は若干困り顔で、知事は身を乗り出して耳を傾けている。あぐりとアグリは談笑している。史人と愛美は仕事モードで待機だ。

 全員に鳴子の配布が終わると、多希は演奏を始めた。ご利用者様も職員もざわつき、鳴子を馴らし始める。狙った通りだ。

 多希が演奏するのは、『お祭りマンボ』。デイサービスに勤務していたときに練習したことがあり、今も手が覚えている。ピアノを習っていたのは小学生のときだけだが、中高では合唱や全校集会のたびに伴奏をやらされていたので、そこそこ手は動く。昔の経験が、まさかここでも生かされるとは思わなかった。

 振り付けを思い出しながら動く職員を、奈直が前の方に出し、あぐりと施設長以外の職員全員を、最終的にご利用者様の前で踊らせることに成功した。嫌な顔をする人はいないように見える。

「良かったよ!」

「ありがとう!」

 ご利用者様も満足されていた。拍手の代わりに鳴子を振る。鳴子を回収しながら、職員もやりがいに満ちた顔をしていた。

「これをやれば良かったのか。思いつかなかったです。ありがとう。東都の介護士はレベルが違いますね。畠野も、このくらいできてもらわないと。あいつ、お客様にレクをやらせておいて、自分は座って休んでいるんです。だらしない」

 称賛は次第に、あぐりへの悪口になっている。職員は明るい表情をしながら、一緒に働く仲間を中傷していることに気づいていない。もしかしたら、これが普通だと思っているのかもしれない。

 くいくい、と奈直に袖を引っ張っられ、多希は自分が歯を食いしばっていることに気づいた。

「奈直くん、すみません」

「畠野あぐりを拉致しましょう」

「駄目です」

 多希も奈直と似たようなことを考えていたが、実行に移したら警察に逮捕されてしまう。国家資格剥奪も免れない。

「でも、奈直くんに同感です。彼女を潰してしまうのは惜しいですが、俺達ではどうにもできません。せめて、彼女に転職の意思があれば」

「あの人、祖父母がよその老人ホームに入所しているらしいです。利用料はどうにかなるみたいですが、病院の受診代や被服代は、孫であるあの人が支払わなくてはならないらしいです。他の職員が噂していました」

「それが本当なら、多少無理して働いてしまうかもしれませんが……」

「さすがの俺でも、あんなになるまで根を詰めません」

「奈直くんはご自分のコントロールが上手いんですよ」

「褒められた!」

「はいはい、偉い偉い」

 キーボードを片づけ、15時のお茶の準備になる。あぐりの点滴が終わり、多希は道具を片づけた。厨房の職員が大きな薬缶を用意し、カウンターに置いた。

 薬缶がバランスを崩してホールの方に傾き、その真下に、車椅子をえっちらおっちら自走するご利用者様がいる。

「危ない!」

 あぐりが車椅子を勢いよく押し、ご利用者様を逃がした。あぐりも、突きとばされる。薬缶がひっくり返り、熱湯がこぼれる。

 あぐりは体を起こし、背中で熱湯をかぶった人を見て唖然とした。

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