第33話

「皆様、こんにちは!」

 奈直が声を張る。車椅子に乗ったご利用者様が、何事かと顔を上げた。

「今から、落語をやります! 皆さん協力して下さい!」

 理解できなかったご利用者様が、「何やるの?」と近くの職員に訊く。職員は腰をかがめてご利用者様と目線を合わせ、「落語だって」と答えた。あぐりの扱いは雑だが、ご利用者様に対してはそうでもないように、多希には見えた。介護職員のレベルが低いわけではない。邪険に扱うのは、あぐりだけなのだ。

 奈直が、客席と舞台を分けようとして職員にあれこれ話している間に、多希はあぐりを連れて人の輪から離れようとした。

「やめてよ! うちの看護師は、あたしなの!」

 いかにもベテラン風を吹かせていそうな「おばちゃん」が、多希のバッグを奪おうとする。まあまあ、と史人が間に入ってくれた。男前な容姿の史人に、おばちゃん看護師は態度を和らげた。

「あら、あなたボディーガード? 東都の人は格好良いわね。スーツ引っかけていたでしょう? 破れてない? 見ましょうか?」

 おばちゃん看護師に、愛美が若干嫌そうな顔をした。そりゃあそうだ。

「施設長、お話を聞きたいのだけど」

 橘子が、あぐりから施設長を遠ざけてくれた。

 デイホールの半分を客席、半分を舞台に見立て、落語が始まる。奈直は、背もたれの無い椅子に正座した。椅子は正座するには小さく、腰のホルスターが邪魔そうだが、外すわけにゆかないらしい。着けたまま、深く礼をした。

「ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。外はまだ、雪が残っておりますが、暦の上では春。新生活の時期でございます。お引っ越ししたというかたも多いかと存じます。粗忽者そこつものの亭主も女房の家から引っ越しをして、箪笥たんすを背負って歩いて行ったのだといいます」

 奈直は羽織を脱ぐ要領で、スーツを脱いだ。置く場所が無く、近くの職員が預かってくれた。

 多希は点滴の用意をしながら、奈直が気になってしまった。美青年と落語のギャップが凄まじいが、それと同じくらい、声の聴かせ方が上手い。巻き込ませる力もある。しかも、落語の導入はおそらくアドリブだ。学歴が全てではないと思い知らされる。介護の才能の塊みたいな男だ。その実は若干こじらせているが。

「……介護士って、このくらいできなくちゃ駄目なんですね……?」

 人の輪から外れ、椅子に座ったあぐりが、落ち込んだように溜息をついた。

「いや、あれは規格外です。20歳らしいけど、実務経験が長いみたいですし」

「私と同い年なのに」

 点滴の針を刺されても、あぐりは痛そうな表情をしない。多希は点滴や採血が上手い方ではないが、ここまで無反応なのは初めてだ。

「あの……」

 初対面なのだから苗字を呼ぶのが普通だが、「あの畠野」と言われている以上苗字は避けるのが良いだろうか。

「……あぐりさん、お家が農家だったりします?」

 かなり遠回しな質問なのに、下の名前で呼んでしまった。

「両親は会社員でしたが、祖父母は畑をやっていました」

 あかん。この子には親の話もタブーだ。

「……なんか、気を遣わせていますよね。平気です。慣れていますから」

「慣れては駄目です」

 蔑ろにされることに慣れては駄目。そこは多希は遠慮しない。

「名前の由来ですが、両親はユウキかユキと付けたかったらしいです。祖父母が勝手に出生届に『あぐり』と書いたと聞きました。家庭裁判所に届け出たそうですが、名前の変更はできませんでした。祖父母からは、男の子が欲しかったと言われました。今更どうでも良い話です」

 あぐりは本当にどうでも良さそうだが、多希はどうでも良くなかった。「あぐり」という名称は、おそらく二分される。ひとつは、農業を意味するアグリファームが由来。もうひとつは、もう子を望まない、という意味。畠野あぐりは、おそらく後者だ。

 あぐりは俯き、多希と目を合わせない。顔を上げることも億劫みたいだ。

「私が『あの畠野』のことは、東都の人も知っていますよね」

「あ……昨日、岩巻のイベント会場で、お見かけして、麻酔銃の腕前が凄いな、と。あぐりさんだとは、後で知りました」

「あれ、見られていたんですね。お恥ずかしい。学科の訓練のときから、外したことがないんです。麻酔銃は自動で照準を合わせるようにできているんじゃないんですか?」

「自動じゃないです。俺も介護士を目指しているので麻酔銃の模擬試験を受けたことがありますが、あれは自分で照準を定めるものです」

「え……麻酔銃を構えるとサーモグラフィーでハナミネコの体温がわかるから、それを参考に自動で照準が定まるのだとばかり」

 あぐりは、本当に知らなかったようだ。あの腕前は、生まれ持った才能だった。

「ここから岩巻まではかなりの距離がありますよね。昨日は仕事で?」

 点滴が終わるまでの時間、多希はあぐりと話すことにした。本当は、疲れているようだから寝ていてもらいたいが、施設長がまた理不尽に憤慨しないとも限らない。多希は相手の事情を根掘り葉掘り訊く質ではないが、話をすることで気を紛らわせてもらいたい。

「この『いらせ村』の系列の施設に、ヘルプで行っていました。希望するご利用者様を連れてイベントを見に行く予定だったみたいで、私も同行しました。まさか、ハナミネコが侵入するとは思わなかったです」

「それは、俺も思いました。でも、あんな言い方は」

 自作自演なのではないか、とご利用者様に言われ、あぐりは言い返せていなかった。

「ご利用者様を否定したら、虐待だと言われて逮捕されてしまいます。この職場にも迷惑をかけてしまいます。ただでさえ、迷惑をかけているのに」

「小耳に挟みましたよ。介護士はなかなか報われない、と」

 奈直の同窓生、青野が言っていたことである。

「それは有り得ません。面接を受けたら採用されましたから。本当に報われなければ、採用もされません」

「それは、報われる、のハードルが……」

 多希が言葉を探していると、ここでは珍しい独歩どくほのご利用者様が、ちょこちょこ近づいてきて、あぐりの隣の椅子に座った。

「あーちゃん、いたくないの?」

「痛くないですよ。ありがとうございます」

 あぐりは顔を綻ばせた。

「お兄さんが落語をやってくれていますよ。聴いてあげて下さい」

 「粗忽の釘」は、粗忽者の亭主と女房の引っ越しの噺である。

 亭主は、引越しだというので重い荷物をかついで出たがなかなか新しい長屋へ来ず、すっかり引越しも終わったころやっとやって来た。

 女房に「とりあえず箒でをかけるんだから長い釘を打ってくれ」と言われ、ぶつぶついいながら、長い釘を壁に打ち込んでしまう。「隣のものを壊したかも知れないから行って謝っておいで」といわれ、亭主は隣ではなく向かいの家へ行く。話が通じないのでやっと気づき、改めて隣に行く。

 亭主は、落ちつこうとしたが、お宅のおかみさんは仲人があってもらったのかなどと言い出し、なかなか用件に入らない。やっと釘のことを思い出して、見てもらうと仏壇のあみだ様の頭の上に釘が出ている。

「えらいことだ。明日からここに箒を掛けにこなくちゃならねえ」

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