第32話

「畠野さん、一体何をしたの⁉」

 金切り声を上げたのは、「いらせ村」の施設長だった。多希と同じ30歳くらいの女性の施設長は、それよりも若い職員に詰め寄る。

「あの人」

 奈直が多希の肘をくいくいと引っ張り、呟いた。そうですよね、と多希も同意する。

 詰め寄られて萎縮する職員は、昨日の岩巻のイベント会場で見た、介護士の女の子だった。奈直が人間離れした腕力で放り投げたハナミネコを、あの彼女が遠距離から麻酔銃で仕留めたのだ。「あの畠野」と言われ、SNSでさらされていた、畠野あぐりである。

「……もう一度連絡を取らせて頂けませんか?」

「もう致しました! なんて言われたと思う? 畠野を名乗る若い女の子から午前中に電話があって、『ハナミネコが施設で見つかったからボランティアは中止にして下さい』と言われたんですって。若い女の子なんて、あなたしかいないです。どうするの? 大臣も知事も来ちゃいますよ」

 施設長は、橘子と知事に気づき、畠野あぐりを睨みつけた。あぐりは小柄ではないが、萎縮した態度と細身のせいで小さく見える。ポロシャツと前開きパーカーが、だぼだぼだ。

「すみません。うちの介護士のせいで、ボランティア団体が来られなくなってしまって」

 施設長は、涙目でぺこぺこ頭を下げる。介護従事者なのに焦げ茶色に髪を染めて、と多希は眉をひそめてしまったが、染まり切っていない白髪が何本も見え、見た目に気を遣う人なのかとすぐに印象が変わった。仕草の際に見えた左手も、薬指に指輪をつけ、爪は地味なジェルネイルをしている。

 考えようによっては、結婚指輪に見える指輪は、セクハラから自衛しているようなものであり、ジェルネイルに関しては、多希の職場の看護師も専門店でやってもらっている人もいた。その人は、本来なら皮膚科のドクターストップがかかるほど体質的に爪が脆いが、生活がかかっているため看護師を辞めるわけにはゆかず、保護目的でジェルネイルをしていた。多希はそんなことを思い出してしまった。

 この施設長も苦労しているんだな、と理解はしたが、あぐりに対する姿勢は共感できない。

「で、どうするの? あたし達は何度も訊いたよね? できることがあれば協力しますよ、と。でも、畠野さんは、ボランティアをお願いしたから大丈夫だと一点張りでした。それなのに、あなたは勝手にボランティアを中止しました。我々に準備の機会を与えませんでした。で、当日です。偉い人も来ました。何もできていません。さあ、どうするんですか?」

 あぐりも涙目で、何も答えられずに俯く。

 施設長は、ジェルネイルで保護した指先で自分の涙を拭う。

「大臣、知事。うちの介護士、畠野はこんな感じで仕事の邪魔をするんです。実習生だった頃からこうでした。うちは介護士不足で、施設が運営できるかどうか危うかったから畠野を採用しましたが、このザマです。『あの畠野』なんですよ。いつまた人を殺すのかわからないから、毎日びくびくして仕事をしています。もう限界です。助けてほしいです」

 それを聞いた知事が、うんうんと頷いた。

「施設長の気持ちは、痛いほどわかりますよ。実は、他の施設もそんな感じで悩んでいるんです。社会問題ですよね。大臣、これが介護現場の現実なんですよ」

 知事は困り顔だが饒舌で、自分に酔っているようにも見える。

 橘子は黙って話を聞いている。口を挟むタイミングを伺っているようだが、糸口が掴めない。

「ねえ畠野さん! 移乗介助いじょうかいじょやってよ!」

「ご利用者様の移動、どうするの? テーブルは?」

 他のスタッフに呼ばれ、あぐりは振り返った。

「畠野さん、逃げないでよ! お客様がお待ちなのに何もしないの? あたしだけの責任にするの?」

 施設長が、あぐりの腕を掴む。

「細っ! か弱いアピールかよ」

 施設長が舌打ちをした。

 あぐりが、がくりと膝から崩れる。誰もあぐりを支えようとしない。

 一番先に動いたのは、史人だった。しかし、車椅子で暴走するご利用者様がぶつかってしまい、身動きが取れなくなってしまった。車椅子にスーツが引っかかり、それに気づかないご利用者様が、無理矢理車椅子を進め、史人も巻き込まれてしまった。仕方なく、スーツを脱いでワイシャツスタイルになった。

「大丈夫……?」

 愛美が、あぐりに駆け寄り、眉根を寄せた。

「多希さん、来て下さい!」

 多希も、あぐりの体を支えようとして、明らかに顔が赤いことに気づいた。

「失礼します」

 額と首筋に触れてみる。熱感がある。

「施設長、彼女を休ませてあげて下さい。熱があります」

「解熱鎮痛剤がありますよ。飲めば良いじゃないですか。介護士なんだから、休まず働きなさい」

 それを聞いて、多希はぐっと奥歯を噛みしめた。とてもじゃないが、上に立つ者の言葉とは思えない。

 橘子さん、ごめんなさい。多希は橘子に目で合図をしてから、施設長に言う。

「自分は曲がりなりにも看護師です。ナースの立場から言わせてもらうと、この畠野さんは動かせる状態じゃないです。今すぐに横にさせて下さい」

「無理です。今日はこの子しか介護士がいないんです。介護士が1名以上いなければ、デイは稼働できません。畠野のせいでデイの売り上げを落とすんですか」

 そんなの知ったことか、と言いたいが、多希の独断で他施設に損失を出させるわけにはゆかない。

「でしたら、点滴をします。幸い、生理食塩水セイショクは持ってきました」

「は? 有り得ない。その間、デイはどうするんですか? 大臣も知事も、ご利用者様も待たせているのに」

 相変わらずの施設長に返す言葉が無い。多希が返事に窮していると、奈直が手を上げた。

「俺がやります。何分保たせれば良いですか?」

 施設長は、今更になって奈直に気づき、その相貌にしばし見とれていた。

 何分保たせれば良いか、の問いに、多希は点滴の時間だと解釈して答える。

「1番早くて15分です」

「20分は保たせます。ホワイトボードを借りますね」

 奈直は、ホワイトボードにマーカーで大きく文字を書いた。「粗忽の釘」と。

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