第31話
地方訪問2日目。午前中は
「
多希は、奈直の反応が気になってしまった。奈直は大きな瞳で介護現場を見ていて、多希に見られていることに気づいていないようだった。今朝方までの、弟が兄に甘えるような態度は一変し、麻酔銃を携帯した奈直は、命がけの任務に臨むような凛々しい眼差しになっていた。介護士の業務も、命がけの任務と言いたいところではあるが。
見学した施設の介護士は、看護師や他の介護スタッフに頭ごなしに怒られていた。利用者にも無碍に扱われ、気を落としたような表情になると、すぐさま叱責された。これだから介護士は程度が低い、と。
橘子も渋面で首を傾げてから微笑み直し、「わたくしには、介護士さんも充分働いていらっしゃるように見えます」と施設長に言うと、施設長は「偉い人が来ているから、そう見せているだけです。後で指導します」と歯を食いしばって微笑んだ。
「大臣には、介護士の育成と就業に力を入れて頂きたいです。うちは昨年、夜間にハナミネコの侵入を許してしまい、感染症で命を落としたご利用者様がいました。介護士の怠慢です。もう二度と、このようなことが起こらないよう、介護士には刺し違えてでもご利用者様を守ってもらわないと」
施設長の話を聞いて、多希はぞっとしてしまった。介護士に対して明らかにパワーハラスメントをしている。それなのに、自覚していない。奈直が聞いていないか気になってしまったが、奈直はご利用者様に話しかけ、麻酔銃に気づかれるとそっぽを向かれてしまっていた。
「……っ!」
多希の隣で奈直が、息を呑んだ。多希はすかさず奈直の前に立ち、視界を遮る。
「……ごめんなさい。皆、平気みたいなのに」
「いいえ、無理して見なくても大丈夫です」
病院の裏口で行われているのは、死因がハナミネコウイルス感染症の遺体の移送準備だ。ヒトからヒトへの感染は確認されていないが、ウイルスが変異する可能性も示唆されている。現行の感染症法上では、通常の遺体のように扱われず、感染の恐れありという扱いをされ、ウイルスが出ないような方法で火葬、埋葬される。今の状態では、家族と同じ墓に入ることはできない。
「わたくしが頑張らなくては」
橘子も病院の様子に気づき、黙祷を捧げた。
午後の介護施設訪問には、蒼右森県知事も同席する。
訪問予定の有料老人ホーム「いらせ村」は、デイサービスが併設されている。ご利用者様は日中はデイサービスを利用し、夜間は居室のある有料老人ホームで過ごしてもらう、というスタイルである。多希が過去に勤めていたデイサービスと同じシステムだ。
「四季北は介護士のレベルが低くて困っているんですよ」
蒼右森県知事は、ようやく50代かという男性である。親父よりも若いな、と多希は思ってしまった。そういえば昨日の朝、両親から「誕生日おめでとう」のメッセージが来ていたが、返事をしていない。昨夜のあれこれで誕生日を嫌だとは思わなくなったが、ちょっと今は、違う意味でそんな気分ではない。
「大学や専門学校の介護士過程だけ学費がかなり免除されているでしょう。そのせいで、従来なら経済的な事情で進学できなかった子が介護士過程に進学し、大した矜持も無いままこの春から現場に出てしまった。実習生を受け入れた施設から、苦情の報告を何件受けたことか。介護士の門戸が広いのも、困ります。社会人が介護士の資格だけ取得し働かないケースも聞きますし、銃器が好きな人に介護士になられても困りますし、介護士なのに虐待疑惑なんか
多弁な知事の語りに、多希は一瞬で脳内が沸騰した。左手のブレスレットを掴んで落ち着こうとしたが、今まで着けていたブレスレットは、もう無い。昨日壊してしまったから。代わりに、保希から贈られたバングルを着けている。外すタイミングを失っていた。
知事が喋っていた東都の事件とは、多希が大変世話になった介護士、
「知事、お話はまた後で聞きます。今は……」
「ああ、そうでした。デイサービス。お年寄りが待っています。介護士の仕事も要拝見ですね」
知事は陽気で多弁。だが眼差しは、橘子に好意的ではない。違う派閥だというのは、ここまで敵視する理由なのだろうか。
バングルを握りしめていると、その手を複数人に、がしっと掴まれた。奈直、愛美、史人の3人だ。3人とも頷いた。大丈夫、落ち着いて。多希は、そう言われている気がした。
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