第4章

第30話

 嫌な夢を見た。多希が勤める静寛院大学病院にハナミネコの集団が侵入する夢だ。介護士の麻酔銃が効かず、逃げ遅れた人が次々とハナミネコに噛まれ、引っかかれ、傷を負う。助けを乞われても、体が動かない。次は自分の番だと悟ったとき、足元から恐怖が這い上がってきた。いつ死んでも良かったんじゃないのか。自分はまだ生きたいのか。

 自問に自答できずに、目が覚めた。スマートフォンのアラームは、あと10分で設定された時間になろうとしている。

 真夜中に静かに奈直から離れ、自分のベッドで寝た。良眠するはずだったのに、変な夢を見てしまった。疲れが抜けない。ベッド上で胡座をかいてだらだらしていると、隣のベッドで奈直がとび起きた。

「大丈夫ですよ。おはようございます」

「お……はようございます」

 奈直は寝起き一番に驚いた顔をし、やがて安堵の溜息をついた。寝ている間に多希が死んでしまうのではないかと心配した奈直は、多希の隣で寝ようと粘っていたのだ。

「昨夜はご心配をおかけしました。もう、大丈夫です」

 奈直は目をうるませ、声を絞り出す。

「お、俺……! 俺の……!」

 なんだ。何を言おうとしているんだ。

「俺のファーストキスを返せ!」

 多希は心当たりがなく、記憶を手繰り寄せる。

「あ……」

「あ、じゃないです!」

 奈直が、綺麗な眉を吊り上げ、顔を真っ赤にする。

 思い出した。多希が舌を噛み切ろうとしたとき、奈直が自分のファーストキスを犠牲にしてまで多希の自殺を阻止したのだ。

「その節は、命拾いしました。恩に着ます」

「俺には致命傷なんだよ!」

「俺は、あなたくらいの年齢で童貞を捨てましたよ」

「こういうときだけ大人ぶりやがって……!」

 奈直はベッドに突っ伏し、手足をばたつかせた。まだ20歳なのだ。家庭環境に余裕があれば、まだ学生でいただろうに。何の因果か、体を張って未知の生物から高齢者を守る生活を送っている。今は、そのスキルを買われて要人警護の最中だ。

「今日もよろしくお願いしますね、天才的な介護士様」

 多希が頭を撫でると、奈直はベッドから顔を上げた。

「うわ、皮肉。大人の余裕が、むかつく」

 ちょうどアラームが鳴った。



 洗面台で歯を磨いていると、奈直が割り込んできた。気にしないように気をつけても、つい隣の美青年に目が行ってしまう。

「なんすか」

 一晩経った彼は、遠慮が無くなった。シェーバーを手にして、胡乱げに多希を見る。

「髭、生えていないでしょう」

「生えてます」

 ほら、と多希の手を顔に当て、触らせてくれる。存在る。確かに髭が在る。ただし、細いし短いし肌の色とあまり変わらず、目立たない。

「無いです」

 わざと嘘をつくと、今度は鼻の下を触らせようとしてきた。唇に指が触れてしまい、ふたりともびくついてしまった。

「……ごめんなさい。触るつもりは」

「いえ。俺も半分ふざけていました」

 気まずい空気のまま、片や歯を磨き、片や髭を剃る。

 多希が完全に身支度を整え終えても、奈直は洗面台から離れない。本人を刺激しないようにこっそり見てみると、奈直は髪をゆわこうと苦戦していた。

「貸して下さい」

 多希は櫛で奈直の髪を梳く。鏡に映った奈直は、何とも言えない表情だった。

「訊いても良いですか?」

「何ですか?」

「あなたも、俺と同じなんですか?」

「それ、朝から訊いちゃいます?」

 口調は茶化しているが、鏡に映った表情は真面目だった。

「死にたいです。生きていても絶望しか無いです。だったらせめて、誰かの命を守ってから死にたいです」

 いつしか多希が、酒に酔った勢いでこぼしてしまった本音を、奈直は一字一句間違えずに言った。

「働くようになってから、いつの間にかそう思うようになりました。人生は理不尽なことが多いです。青野くんは大学に行けたのに、俺は実質小学校までしか行けていません。社会不適合者である自分に腹が立ちます。ならばせめて、手を差し伸べてもらった方をと、介護の仕事を選びました。やりがいはあります。興味深い業界でもあります。でも、気がついたら、心の線が1本切れてしまっていたんです。ご利用者様をかばって怪我をしても、時間外勤務が続いて風を引いても、これが身の程なんだと思うようになりました。自分を守るという感覚が、欠落していました。生きていることに絶望しました。ならばせめて、誰かの命を守ってから死にたいです」

 奈直は穏やかな表情で目を伏せる。

「手、止まっていますよ」

「あ……ごめんなさい」

 量の多い髪をハーフアップにし、短い毛がとび出ないようにヘアピンで留める。髪型が決まり、奈直は振り返って多希を見上げた。

「あなたに会えて良かった。俺だけじゃないと思えた。あなたを理解したいと思えた。あなたに理解してもらいたいと思った。でも」

 がしっ、と多希の肩を掴む。

「初めての相手は違う人が良かったです」

「初めて、って……俺のせいで口を吸わせる羽目になったことに関して、ですよね? 言葉数が少ないので、これでは童貞を捨てたことになりますよ」

「あああ! これ以上言わないで下さい!」

 強い力で、がくがくと肩を揺さぶられる。多希はすでに酔いそうだ。

 厚生労働大臣、佐々木橘子氏の地方訪問に同行して、2日目。夜が明けた。今日も生きている。

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