第22話

 史人が、鼻水をすすりながら泣いていた。

「な゛な゛お゛お゛お゛……っ!」

 看護師以上に仕事中は自己を押し殺さなければならない史人が、決壊したように感情を濁流させる。

「若いのに苦労しやがって!」

 多希がポケットティッシュを差し出すと、史人は全て遣い切ってしまった。青野が無言で引いている。

「大目に見てあげて下さい。こういう人なんです」

 史人の名誉のために、多希はフォローしたが、青野は「あ、うん」と曖昧に頷いた。

「……今の奈直くんは、面白い人達に囲まれているんですね?」

「うん、まあ……彼も面白い人ではあると思いますが」

「……奈直くん、よかったね……っ!」

 青野は眼鏡を外して泣き崩れてしまった。周りの人がいぶかしげに視線を向け、目をそらす。

 診察室の戸が開き、中から出てきた人が「うわ」と呟いた。

「何すか、この面白い人達は」

「な゛な゛お゛!」

「佐々木くん!」

「うわうわうわ、スタンダードプリコーション」

 診察室から出てきたのは、奈直だった。スーツのジャケットもワイシャツも着ておらず、上衣は襟ぐりが大きく開いた黒いロングティーシャツ1枚である。その衣類は、介護士がよく業務中に着用する、特殊素材のインナーである。販売当初はあまりにも高価で買い手がつかなかったが、近年は介護士のみ国からの補助が出て購入しやすくなっているらしい。

「奈直くん、お医者様は何と?」

「首から下が別人だと言われました。どこにそんな筋肉量を隠していたんだ、と。それはさて置き、検査の結果、感染は無しとのことです。骨にも異常ありません」

「よ゛がっだあ゛あ゛あ゛!」

 感情失禁した史人が奈直に抱きつこうとし、奈直は多希の背中に隠れた。

「ごめんなさい。スーツもシャツも、感染源にならないと言えないと判断されて、保健所に没収されてしまいました。ご無理を言って一緒に買ってもらったのに、本当にごめんなさい」

「いや、あのときは、俺もスーツを買いたかったから。それに、奈直くんは自分で支払ったでしょう」

「でも、お時間を割いてもらったから」

「奈直くんが無事で、何よりです」

 多希は、後ろに腕を伸ばして奈直の頭を撫でようとしたが、するりとかわされてしまった。

「あ」

 奈直が青野を見つけ、頭を下げた。青野は弾かれたように椅子から立ち上がる。

「奈直……佐々木くん! あの覚えていないと思うけど……青野真朝人まさとです。中学校でマッサマンと呼ばれていたんだけど……」

「マッサマン……!」

 奈直が、形の綺麗な目を見開いた。思い出した顔だ。

「いた! 隣のクラスの!」

「そうだよ! 佐々木くんがまた岩巻に来ると思わなかった。玄田先輩のこと、本当にごめんなさい。あの人、お友達の百瀬先輩が追い詰められた原因が佐々木くんだと思い込んでいて……」

「玄田……百瀬……」

 そこは眉根を寄せてしまった。

「中学に入学してすぐに、男の先輩に告白されたことがあったけど……返事をする前に疑問点を質問したけど答えてもらえなくて、俺が告白を断ったことにされちゃった。それ、百瀬って人だったんですね。で、お友達が玄田。俺は恨まれてもおかしくないです。でも、あのときどんな対応をしていたら、百瀬さんに嫌な思いをさせず、玄田さんに勘違いさせなかったのか、考えられないです」

「佐々木くんは考えなくて良いんだよ。佐々木くんに落ち度は無かったと、僕は思う。悪いのは、百瀬先輩を煽って追い詰めた玄田先輩達。佐々木くんまで不登校にして転校させた」

「俺、不登校にもなってないし、転校の理由もそれじゃないです」

 青野だけでなく、多希も、史人も、首を傾げてしまった。先程、青野から聞いた話と違う。

「俺、震災で家族を亡くしているんですけど、その後に、父方の親戚に厄介になっていたんです。良くしてもらっていましたが、そこの親父さんが長期の転勤で四季南しきなんに引っ越すことになって、『奈直は一緒に行くよね?』って話になったんです。それが、1学期の期末試験の前。先輩……百瀬さん?がやばいことになっていたらしいと後で知ったけど、当時は自分のことしか考えられませんでした。夏休みになって、東都の山奥にいた母方の祖母が亡くなったと連絡をもらって、お葬式に行きました。祖父が紙漉きの職人で工房をやっていて、弟子はいるけど実際は独居で寂しかったみたいで、来てほしいと言われました。俺は祖父の方を選びました。転校の理由は、それです。手続きとか引っ越しとか色々あって、正式な転校は年末になってしまいました。そんなわけで、俺は岩巻で不登校になったんじゃないです」

 青野は、肩の荷が折りたように、すとんと肩を落とした。

「不登校になったのは、東都に来てから。なんか馴染めなくて、平日は家事や祖父の手伝いをして、土日は祖父の知り合いのつてでデイサービスでボランティアしてた。定期試験を受けに学校に行ったし、出席日数も足りた。3年の秋頃にハナミネコウイルス感染症が出始めて、祖父もワクチンを打てずに感染して亡くなって……」

「もう大丈夫です! ごめんなさい! 佐々木くん、今は介護士さんなんだね?」

 青野は、奈直の麻酔銃に目をやり、深々と頭を下げた。

「介護士さんがいてくれて、ありがとうございます」

「いや、そんな大層なものじゃねえでげすよ」

 言い方はあれだが、奈直は謙遜した。

「大層なものだよ。僕は介護のボランティアに行ったことがあるけど……介護士さんは、なかなか報われないね」

 青野の表情が暗くなった。

「ヘルパーさんが女社会だとは薄々感じていたけれど、昔ながらのパワハラ体制で怒鳴るのが聞こえて、怖くなっちゃった。特に、麻酔銃を携帯した介護士さんには、職員からもお年寄りからも風当たりが強いね。『銃が撃ちたいから介護士になったんだろ!』と言われ続けていて、気の毒だった。他のヘルパーさんのりも仕事をこなしているのに、介護士さんだけが当たり散らされて……高齢者を守っている介護士さんがこんな目に遭っているなんて、気の毒で……」

「あー……噂は本当だったんだね。四季北の、介護士偏見。蒼右森県の知事が、厚生労働大臣の佐々木橘子先生と違う派閥だと聞いたことがあるけど、ここまでとは」

「確かに、岩巻はそこまでではないけど、蒼右森はもっと酷いかも」

「俺達も頑張らなくちゃ。青野くん、わざわざ来てくれて、ありがとう。大学、頑張って」

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