第23話

「待って」

 青野はウインドブレーカーを脱ぎ、奈直の肩にかけた。

「これ、着て行って。ロンティー1枚じゃ寒いよ」

「青野くんも寒くなっちゃうよ」

「僕は車に上着があるから大丈夫」

「じゃあ、お言葉に甘えて。後で返します」

「返さなくても平気だよ」

「返すよ。また話したいから」

 青野と別れ、車に乗り、佐々木橘子氏が待機しているホテルに向かう。

「な゛な゛お゛……っ!」

「さっきから、何ですかこの人」

「史人くん、そろそろ仕事モードに切り替えて下さいね」

「承知」

 多希が「仕事」の二文字を出すと、史人の感情失禁が止まった。

「切り替え、速いですね」

「こんなもの、赤子の首をひねるようなものです」

「怖っ」

 奈直は容赦なく突っ込みを入れた。

「安心しました。奈直くんが、同年代の人と仲良くしようとする姿勢に」

「仲良くしようと……特に考えていなかったです。でも、恩はあります。あのとき、俺をかばって玄田の注意をらそうとしてくれたから。でも、何と言うか……」

 奈直は口ごもる。外は日が沈み、西の空にわずかな夕焼けが残っていた。

「お兄ちゃん達だから言いますけど、まともな環境で育っていたら、俺も大学に行っていたのかな、と考えてしまいました。まあ、俺の学力と性格では、高校を卒業できるかも怪しいですが」

 奈直はウインドブレーカーのチャックを一番上まで上げ、口を埋めようとした。

「自分の家庭環境に後悔はありません。震災前のことはほとんど覚えていませんし、親戚にも東都の祖父からも優しくしてもらっていました。親戚とは、今持って連絡をとっています。今度、四季南から東都に遊びに来るそうです」

「奈直……っ。健気な子よ」

「俺を被災地の王子様にしないでくれます?」

「してねえ……っ!」

「史人くん、仕事」

「承知」

 橘子が待機しているのは、宿泊予定でもある岩巻駅近くのホテルだった。結婚式場も併設されている高級感のあるホテルのロビーに、橘子は待っていた。

「奈直くん! お医者様は何と?」

「橘子さん、走らないで下さい!」

 愛美の声は耳に入らず、橘子は奈直に駆け寄る。

「ご心配には及びません。首から下が別人だと言われました」

 それを聞いた橘子が、頭上に疑問符を浮かべそうな微妙な表情をした。

「それはそうと、無事です。感染もしていません。橘子さんのお蔭です」

 奈直は青野から借りたウインドブレーカーを脱ぎ、特殊素材のロングティーシャツの袖を肘上までまくった。周囲の人は一瞬慌て、直後に顔をしかめる。奈直のあらわになった上肢に、多希は鳥肌が立った。

 奈直が袖をまくって見せたのは、赤色を越えて黒々としたあざだった。歯型だ。その大きさとタイミングから見て、ハナミネコに噛まれたときのもので間違いない。意外にも筋肉で締まった腕だが、痣で済んだのが奇跡だ。

「俺はワクチンを接種していて抗体もできていますが、このインナーを着ていなければ、噛まれるどころか貫通していたかもしれないとお医者様から言われました。もしも貫通するほどの外傷を負ってしまったら、抗体を持っていたとしても感染は免れないと。そうならなかったのは、このインナーのお蔭です。介護士に欠かせない衣類ですが、メーカー小売希望価格では到底買うことのできない値段です。国からの補助がなければ、買うことができませんでした。補助の法案を成立施行させて下さったのは、厚生労働大臣が今の……橘子さんになってからです。橘子さんがいなければ、俺は大怪我を負って仕事を中断せざるを得ませんでした。橘子さん、本当にありがとうございます」

 奈直は、橘子に深々と頭を下げた。

「いえ、そんな、わたくしは、当然のことをしたまでです」

 年若い青年に頭を下げされ、橘子は動揺している。その間に、多希は車椅子を近くに寄せ、橘子に座るように促した。

「その衣料品メーカーを視察したとき、値段を聞いて驚いたわ。確かに、小売希望価格で販売しないと会社が破綻する。かといって、介護現場で働く人が簡単に出せる金額ではない。国でどうにかしないといけないと思ったの。良かったわ。介護士さんの助けになっているみたいで。本当は、国民全員が買える値段にしたいけど、まだそれは難しくて……なにはともあれ、無事で良かった。今日はゆっくり休んでちょうだい。明日もよろしくお願いします」

 夜は予定が無い。ハナミネコウイルスの流行によって、夜の会食はめっきり見なくなった。ハナミネコは夜に活動が活発になるからだ。

「橘子さん、あの会場で感染者や怪我人は出ませんでしたか?」

「ええ。出なかったと聞いているわ」

「俺に加勢してくれた介護士がいたようですが、その人は」

「若い女の子よね。詳しい話は出なかったわ」

「そうですか」

 奈直は口を閉ざした。

「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。お言葉に甘えて、休ませて頂きます」

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