第3章
第16話
その日、多希は両親からのメールを無視し、真新しいスーツに袖を通した。
有り体に申し上げれば、機嫌は悪い。だが、そうも言っていられない。自分の落ち度で人の生涯を棒に振ってしまうかしれない日なのだ。
「あ、多希さん、おはようございます。今日からよろしくお願いします」
厚生労働大臣、佐々木
多希は気の利いたことも言えず、よろしくお願いします、と言うだけで精一杯だった。
警視庁警備部警備課の
もうひとり。知った顔を探そうとしていたところ、くいくいと肘を引っ張られた。振り返れば、やつがいる。
「おはようございます」
「おはようございます、
声をかけられなければ、気づかなかっただろう。佐々木
「就活生みたいだと思いましたね?」
「思いました」
「素直でよろしい」
奈直は、自分の襟足の長い髪を気にするように、指で梳く。よくよく見れば、左側だけ微妙に短い。
「もしかして、癖っ毛ですか?」
「うん……短くしたり毛量を減らそうとすると、まとまらなくなってしまって。ここを少し切っただけなのに、もう失敗しました」
ここ、と自分で触るのは、左側の髪である。
「ここですか?」
多希も触らせてもらう。毛髪自体は、なめらかで芯が強そうだ。触っていて、気持ち良くなる。奈直が気にしていた左側は、見事に外側にはねていた。ここまでの癖毛では、短くカットしてヘアワックスを使うのも難しそうだ。
「中学生のとき、どうしていたんですか? 中学は校則が厳しいでしょう」
「そうだったかもしれません」
そむけようとした奈直の顔に、手が触れてしまった。
「くすぐったい」
「あ、ごめんなさい」
にきび痕も無い
奈直が弟みたいで可愛い、と思ってしまった。その感情は、もしかしてあの男が多希に抱いているものも同じなのかもしれない。だとしたら、自律しなくてらならない。だが、要人警護の面子として長髪はふさわしくない。
「愛美さん、少し離れても大丈夫ですか? すぐに戻ります」
「ええ、大丈夫ですよ」
「失礼します」
新幹線に乗り込む際、厚生労働大臣、佐々木橘子氏は、車椅子を使った。車椅子を押すのは、今回専属の看護師、多希である。
「男の看護婦か」
誰かが言った。SPではない。野次馬のひとりだ。多希は無視した。
「あのちっこいのは、介護士だろう。看護師が介護をして、介護士は何するんだ」
あのちっこいの、は、言わずもがな奈直だ。ハナミネコ用の麻酔銃のホルスターが、介護士だとわかる。多希はよそ見するわけにゆかず、先程の言葉が奈直の耳に入らないことを願った。
新幹線に乗り込めば、次の駅まで看護師も介護士も大きな仕事は無い。
シートに座る前に、多希は奈直に訊ねる。
「奈直くん、先程は」
「さっき、コンビニに行ってましたよね?」
多希は、奈直に向けられた心無い言葉と奈直の反応が気になったが、奈直から別のことを訊かれた。
「行ってました。ゴムを買いに」
奈直は言葉を失い、綺麗な顔が引き
「変なものを想像していませんか? これです」
「あ……すみません」
これだから、想像力多感な若者は。
「一緒に来てもらえませんか?」
奈直を連れて、トイレ前の鏡に向かう。先程、コンビニで買った
「おお!」
奈直は愁眉を開いた。女の子みたいで可愛いとは、多希は本人の前では言えなかった。コンビニの陳列棚から櫛、ヘアゴム、ヘアピンを取って、レジの列に並びながら、「あ、姉ちゃん? 買ってくるものは、櫛とゴムとピンで合ってるんだっけ?」と大声で通話するふりをした甲斐があった。
「ありがとうございます。全然思いつかなかった」
奈直は、走行する新幹線の中でぴょんぴょん跳ねる。幼くて可愛いなど、本人の前では言えなかった。ホルスターの麻酔銃を目の当たりにすると、この子は介護士なのだと再確認させられた。
「こちらは差し上げます。明日からはご自分でなさって下さい」
「ありがとうございます!」
ヘアセット用品一式をもらって喜んでいた奈直は、すぐに目を伏せ、表情に翳りが差した。
「さっき、男の看護婦とか聞こえました。なんか、怒りたいのと悲しいのとで、今ちょっと自分が変な感じです」
「奈直くんが気にすることじゃないですよ。でも、気にかけてくれて、ありがとうございます」
「……怒れば良いのに」
「もう、そんな感覚、忘れました」
「奈直くんは、感覚麻痺しないで下さいね」
「
奈直は、泣きそうな顔で笑い、小首を傾げた。先程の心無い言葉は聞こえていたようだ。口ではああ言うが、多分、気にしている。
「おい、多希くん。奈直」
頭ぽんぽんの前に割り込んできたのは、史人の声だった。いつの間にか、そこにいた。
「警護対象者がゴム持ってトイレに行ったから、貞操の危機かと思って」
これだから、想像力多感な若者は。
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