第15話

『全く……史人くんは』

 電話の向こうで、愛美はあきれていた。

『タクシーに乗せて、最寄り駅まで来てもらいましょう。駅前で私が待ちますから』

 店を出てタクシーを拾い愛美に指定された駅まで史人を乗せてもらう、という方法で話が進む。

「奈直くんは要ります?」

『ビジュ的には補給したいですが、年齢的にアウトなので、多希さんにお譲りします』

「愛美さんがアウトなら、俺は論外ですわな」

 それを聞いた愛美が、電話口で明るく笑っていた。つられて多希も笑ってしまい、呼吸を整えるのに時間がかかってしまた。

『ん、多希さん』

 調子を戻した愛美が、咳払いをした。

『橘子さんの健康管理、どうかよろしくお願いします。多希さんが頼りです。日常生活の動作はほとんどできるようになりましたが、ハナミネコへの警戒は厳重に行わなければなりません』

 厚生労働大臣、佐々木橘子は、亡くなった父親も閣僚の経験がある、二世政治家である。ただし、橘子が大学在学中に父親は胃癌で他界。橘子は父親の後ろ盾も縁故もないまま、政界に飛び込んだ。地道に政治活動を行い、結婚、子育て、離婚を経験した橘子は、50歳になってすぐに、食道アカラシアという病気にかかったことがある。消化器系が弱い家系だと知った橘子は、ハナミネコウイルス感染症にも神経を尖らせている。ワクチンは接種できて抗体も確認されているが、既往歴のせいでウイルスの侵入と増殖を恐れているのだ。

「かしこまりました。最大限務めさせて頂きます」

 多希個人としても、橘子に厚生労働大臣を辞してもらうわけにはゆかない。ハナミネコウイルスが蔓延し始めて、内閣改造で厚生労働大臣が2回変わった。医療従事者から見て、橘子は期待できる方だ。多希にとって、橘子は守るべき相手である。

『じゃあ、史人くんの発送もよろしくお願いしますね』

「あ、はい。着払いお願いします」

 史人をタクシーに乗せ、愛美が待つ駅まで送ってもらう。

 もうひとり、対処しなければならない人がいる人。

「奈直くん、起きましょう」

 バルの受付前の椅子で、奈直はくうくう眠る。この子のお家はどこですか。ポケットを探って運転免許証を見ると、住所は東都内であるが、ここからかなり離れていた。多希のアパートの方が近い。全く起きる気配が無い奈直の、無垢で美しい寝顔を見ながら、多希は苦渋の決断をした。

 今夜はうちに泊める。

 肩を貸しても歩けそうにない奈直を背負って多希もタクシーを拾い、自分のアパートに向かう。

 タクシーから夜の街を眺めていると、高齢者が出歩いていないことに気づいた。年齢が高くても、60歳くらいだろう。ハナミネコウイルス感染症が蔓延して、もう5年が経つ。当時ぎりぎりの年齢でワクチンを接種できた人は、年齢が高くても今は65歳くらい。それ以上の人は、ハナミネコの活動が活発になる夜間帯は出歩かないのが暗黙の了解になってしまった。結界があっても、どういうわけかハナミネコは人里に現れる。自分の身は自分で守るしかない。後継者のいない人間国宝がハナミネコウイルス感染症で不慮の死を遂げても、その伝統を継げる人はいない。そんな状況が、今後も出ないとは限らない。

 シートにもたれて眠る奈直を見て、夕方訪問介護の事務所に戻る背中を思い出した。この人がこの国の高齢者を守っているのだ。ハナミネコにしか効かない麻酔銃を勤務中に携帯しながら、介護業務を行いながら。



 アパートの前でタクシーを降り、奈直を背負って部屋に入る。高齢者の移乗介助をしたときにも実感したが、男性と女性は同じ体重でも体感が異なる。奈直も例外ではなく、小柄だが女性よりも重く感じた。

 フローリングに直に敷いたベッドマットに、敷布団を乗せた寝床。寝床の掛布団をはねのけ、奈直を横たえた。昨日のうちに、布団を干しておいて良かった。シーツを洗濯しておいて良かった。他人を寝せることになるとは思っていなかった。

 奈直がまぶしくないように部屋の電気は消し、キッチンの照明を点け、多希は浴室でシャワーを浴びた。着替えの上衣を持ってくるのを忘れたが、今更どうしようもない。半裸で部屋に戻ると、奈直がむくりと起き上がって愕然としていた。表情が固まったまま、無言で首を横に振る。

「俺はまだ……童貞でいたいです」

「そういうつもりは無いから!」

「……冗談ですよ。すみません。眠ってしまったみたいで、迷惑をかけてしまいました」

 その反応は本気だったぞ、と多希は突っ込みたかったが、まずは服を着た。

「シャワー浴びます?」

 多希が訊ねると、奈直は首がもげそうな勢いでお断りした。

「俺の言い方が悪かった! 怪しい意味じゃないです! 疲れているみたいだから、今晩は泊まっていって下さい」

「そんなの、迷惑では……」

 奈直は睡魔に勝てず、こくんとうつむいた。

「迷惑じゃないですよ。昨日洗ったシーツと昨日干した布団で良ければ、使って下さい」

「ん……良い匂い」

 奈直は掛布団に顔をうずめ、目を伏せる。

「忘れないうちに訊いても良いですか?」

 と言いながらも、奈直は敷布団に胡座をかいて半分寝ている。

「看護師さんなのに、なんで介護士を目指しているんですか?」

 介護士の試験を受けたことを、柘植つげ弁護士に話したことがある。奈直もその場にいた。

「酔っ払いの戯言だと思って聞いて下さい」

 素面しらふだったら、多分話さない。

「死にたいです。生きていても絶望しか無いです。だったらせめて、誰かの命を守ってから死にたいです」

 しばし、沈黙が訪れた。沈黙を破ったのは、奈直だった。静かに涙をこぼし、袖口で拭う。

 俺だけじゃなかった。奈直が小声で言ったように聞こえた。

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