第11話

「奈直くん、お久しぶり。ピアノの日以来かしら」

 今もなお、入院中の佐々木橘子氏は、親しげに奈直に声をかけた。橘子はベッドに端座位になり、サイドテーブルをデスク代わりにしている。本来であれば退院してリハビリに通院してもらうのだが、地方訪問までにできるだけ回復してもらうためには、リハビリに通いやすい環境にいた方が良いと考えられ、ぎりぎりまで入院することになった。入院加療していることはおおやけになっており、仕事はデスクワークやリモートを行っている。

「橘子さん、ご無沙汰しています。あいにく、ピアノの手柄は彼のものになってしまいました」

 彼、と奈直が指さして示すのは、多希である。

「奈直さん、まさか、あのときの……!」

 一瞬だけ見えた人影と似ているとは思ったが、本当に本人だったとは。

 奈直は人差し指を立て、静かに、とジェスチャーした。

「改めまして、緑埜多希さん、佐々木奈直さん。地方訪問の同行、よろしくお願いします」

 橘子は、政治家の先生とは思えないほどフランクで、腰が低い。その姿勢が、かえって背筋が伸びる思いがする。

「先生……橘子さん、戻りました」

 病室の引き戸が開き、秘書の栗木愛美が入ってきた。その後ろに、スーツ姿の男性がいる。

「あら、アヤトくん。久しぶり。あなたも、訪問の同行、よろしくね」

 アヤトと呼ばれた男性は、多希と同年代に見えた。多希も世間では長身のぶるいに入るが、アヤトも同じくらい背が高い。

「失礼致します。佐々木先生、当日は、よろしくお願いします」

 アヤトは、橘子にしっかりお辞儀をした。

 自分もスーツで働く仕事をしていれば、こんな風になっていたのだろうか。多希はうっすら思ったが、スーツを着て働く自分が想像できなかった。

「紹介するわね。今回、警護に同行してくれる、近衛このえ史人あやとさん。愛美さんとは高校の同級生だったかしら。今は……」

「橘子さん!」

 愛美が慌てた。アヤト――史人も、表情に焦りが見えた。橘子は、いたずらっ子のように顔を綻ばせる。

 史人は咳払いをした。

「警視庁警備部警備課の、近衛と申します。当日は、介護士の……奈直さん、看護師の緑埜さんの警護も任されることになりました。よろしくお願いします」

 奈直の苗字は言わず、下の名前を呼ぶ前にわずかな間があった。大臣と同じ苗字を口にすることをはばかったのだろう。

「よろしくお願いします。看護師の緑埜多希です。橘子先生や愛美さんから多希と呼ばれているので、多希で良いです」

「介護士の奈直です。よろしくお願いします」



 橘子はオンラインで会議があるというので、橘子抜きで、病室の隅の小さなテーブルを借りて、当日のスケジュールの確認が行われることとなった。

 今回訪問するのは、四季北の5県。2泊3日の慌ただしいスケジュールだ。滞在する市町村に「岩巻いわまき市」を見つけ、岩巻、と奈直が渋い顔をした。

「奈直さん、どうしました?」

「何でもないです」

 愛美に訊かれ、奈直は否定した。

「先生の脚の具合ですが、術後の経過は良好ですが長距離を歩くことに関してはドクターストップがかかってしまいました。それなので、車椅子を持って行きます。1日目、東都から岩巻までは新幹線。岩巻に着いたら、県の職員のかたが車でお迎えに来て下さいます。県知事と食事会の後、式典とイベントに登壇。登壇の際、多希さんに歩く手伝いをしてもらいます」

 愛美の言い回しはまどろっこしかったが、歩行介助だと多希は解釈した。

「1日目の夜は岩巻に泊まり、2日目は杜丘もりおか蒼右森そうもりの介護施設を見学。3日目は……」

 スケジュールの説明が一通り終わり、質問、と奈直が手を上げた。

「スーツじゃなくちゃ駄目ですか?」

 場が凍りついた。奈直は上目遣いだが、駄目なものは駄目だ。

「経費で落とせるか確認するので……」

 愛美は奈直を直視できず、声が尻すぼみになってしまった。史人が奈直に厳しい目を向ける。

「確認してもらえると助かります。俺もスーツ買わなくちゃならないので」

 多希が言うと、奈直がほっと溜息をついた。嫌な空気のまま打ち合わせが終わるのは気分が悪い。スーツを買わなくてはならないのも、事実だ。



 打ち合わせが終わり、多希は非常階段から階下に下りてゆく。

 背後から足音が聞こえてきて、まさかと思って振り向くと、上の段にいた人がよろけてしまった。間一髪のところで、多希の腰にしがみつき、大事には至らなかった。

「奈直さん、エレベーターを使って下さいと言ったでしょう!」

 小柄な美青年は、多希にしがみついたまま顔を上げる。柔軟剤の良い香りがした。

「お願いがあります」

 奈直は、大きな目で多希を見つめる。

「スーツを買うのを手伝ってもらえませんか?」

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