第10話

 夜が明けた。今日も生きている。

 年度が変わり、静寛院大学病院には、学校を卒業したばかりのスタッフが一斉に入職した。真新しいスクラブに身を包み、緊張した面持ちでオリエンテーションを受ける看護師を見かけるたびに、多希は当時の自分を思い出す。多希が大学の看護学部を卒業した当時は、まだハナミネコもハナミネコウイルス感染症も、まだ確認されていなかった。良くも悪くも平和な時代だった。

「あ! 多希さん!」

 入院棟の廊下で、浦野の声が弾けた。

「この子、今年からうちに来た期待の新人介護士」

 浦野の陰に隠れるように、真新しいスクラブと特殊インナーを着用した、少女と間違えられそうな介護士がいる。よろしくお願いします、とおどおどしながら挨拶された。

「この人、看護師の多希さん。あたし達みたいな看護助手にも優しいんだよ」

 浦野は、新人に多希のことを紹介する。多希は慌てて否定した。

「そんなこと、ないです」

「そんなこと、ありますよー。他の看護助手も言ってましたよ。多希さんがいるから働けるって」

 それを大きな声で言われると、小耳に挟んだ看護師にナースステーションで陰口を叩かれるおそれがある。看護師は女性優位なところがあり、大奥だと揶揄する人もいる。

「あの……ピアノの人ですよね?」

 新人介護士が、おずおずと訊ねた。昨年度末に、多希が外来のピアノを弾いた動画は、すぐに世間から忘れ去られた。次の勤務日に看護師長に怒られるかと思ったが、それ以外に大切な話があり、動画のことは話題にも上がらなかった。

「動画、見ました。格好良かったです」

「あ、それは、どうも」

 個人が特定されるほど話題にならなくて良かった。公にはなっているが、多希の過去はあまり掘り下げられたくない。まだ覚えている人がいたとは。

「じゃあ、多希さん。今後もよろしくお願いします!」

 浦野は新人を連れて、病室に行ってしまった。浦野はいつも元気いっぱいで、病院ではなく介護施設でレクリエーションをやる方が向いているように見えるが、本人も意識していない謙虚な一面がある。介護士だと胡座あぐらをかかず、あくまで自称看護助手を貫き、ある意味で低姿勢である。

 多希は、ふたりの介護士のスクラブの裾から一瞬だけ見えた、ホルスターを思い出した。彼女達は、介護士。ハナミネコウイルスのワクチンを接種できない高齢者を守る、最後の砦。



 年度末に一度だけ会った、奈直ななおという美青年も、介護士だといった。あれから会っていない。四万津しまづの裁判もシフトが合わず、傍聴できていない。四万津はどうなってしまうのだろうか。裁判の最中に傍聴席で多希を見つけて苦笑する余裕があるくらいだから、無罪を勝ち取れると思っているのだろうか。それとも、多希が和ませてしまったのか。心象を悪くさせなければ良いのだが。

 色々考えながらナースステーションに向かい、時計を見ると、予定の打ち合わせの時間が迫っていた。

「あ、多希くん」

 先輩に呼び止められたが、構っている余裕が無い。

「すみません。しばらくここを空けます」

「じゃなくて、多希くんを待っている人がいるんだけど、多希くんの弟さん? 美形ね」

 俺に弟はいません。そう答えようとしたが、ナースステーションの死角から、ぴょこっと現れた人を見て、多希は無言で驚いた。

「奈直さん⁉」

「はい、奈直です」

 儚げな美青年がナースステーションのカウンター越しに姿を見せると、看護師が湧いた。裁判所で傍聴席の隣同士だった奈直が、ここにいる。今日は白シャツにグレーのカーディガンという出で立ちだ。ネームプレートをつければ病院スタッフと間違えられそうな雰囲気である。

「行きますよ。呼ばれているんでしょう」

「呼ばれ、て」

「俺もです」

 誰に、とは、言わない。多希も、言わない。

 看護師に熱烈に見送られ、多希は非常階段で目的の病室に向かおうとした。ふと気になって後ろを振り返ると、奈直がぴったりついてくる。

「エレベーターを使って下さい!」

 多希の声が反響した。奈直は小首を傾げる。

「俺だけ苦労しても仕方ないでしょう」

「俺はここのスタッフだから、エレベーターを使うわけにはゆかないんです。あなたはお客様だから、遠慮なくエレベーターを使って下さい」

「俺ひとりだけエレベーターなんて、淋しいじゃないですか」

「……というか、奈直さんの一人称、俺なんですね」

「あなたもね」

 他の靴音が聞こえて、ふたりは口を閉ざした。多希は何も言わず、奈直も黙って多希についてくる。

 最上階で非常階段を出て、個室の病室を訪ねる。厚生労働大臣、佐々木橘子きっこ氏の病床である。そこで気づいた。奈直の苗字も佐々木である。

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