第9話

 柘植つげ紺太こんた弁護士の法律事務所は、下町情緒あふれる界隈の、ビルにあった。3階建てのそのビルは、いかにもビルヂングというような大きなビルではなく、雑居ビルのようなごたついた建物でもなく、建物と建物の狭い幅に無理矢理建てられたペンシルビルである。

 かつてペンシルビルは、外国人観光客に人気があったというが、今は観光客自体がこの国に来ない。ハナミネコウイルス感染症の感染拡大を受けて、外交以外での外国人の受け入れを中止している。就労のためにこの国に住んでいた外国人は、祖国への帰国を余儀なく中止され、技能実習生の受け入れも中止。再開の見通しは立っていない。

 この四季島しきしま国は、ハナミネコに対抗する荻野の術式により、独自の発展を余儀なくされている。この国がガラパゴスと呼ばれる所以だ。

「四万津さんが言っていました。多希さんは、看護師さんだそうですね。介護士を目指していたとか」

 ペンシルビルの1階。ソファーのある応接スペースで出前の天ぷら蕎麦を食べながら、多希は柘植に訊かれた。

「はい。目指しています……今も」

 もしかしたら、四万津の中で多希はもう、介護士の資格を持っていることになっているのかもしれない。

「多希さんから見て、四万津さんはどんな人でしたか?」

「愚直で無骨。優しい人でした。でも、それを見せないように演じていた節があります。休憩時間は、ぐったりと寝ていましたから。四万津さんがご利用者様を殺そうとするなんて、考えられません。それでも、有罪になるんですか?」

「僕がさせません。四万津さんは無実に見えます。でも、証拠が無い」

「かと言って、有罪の証拠もないですよね?」

 奈直ななおが、美しい顔の輪郭を崩壊させんばかりに蕎麦をすすって頬張り、口を挟んだ。

「そう。そうなんです。検察はどうしても、四万津さんを有罪にしたいようなんです」

 柘植は箸が進まない。

「今までも、老人ホームで介護士がいながらもハナミネコが侵入した例はあります。業務上過失で逮捕された介護士もいましたが、警察の捜査の結果、すぐに釈放されました」

「そりゃあ、そうだ。過失でないんだから」

 奈直は自分の言葉に自分で頷いた。

「そうなんです。結界が破られたわけではなく、介護士に過失は無かったから。しかし、今回は結界が解けていた。これといった証拠が揃わないのに、検察は張り切って四万津さんを起訴した。前例をつくりたいようなのです。介護士が関係する裁判の指標みたいなものを」

「そんなもののために、四万津さんは……」

 多希も箸が止まってしまった。

「警察に通報したという人は、特養の入居者なんですよね? 認知症状の度合いによっては、証言の信憑性も関わってくるかと」

「それが、その」

 柘植は資料を見ながら答える。

「その老人は認知症ではあったけど初期も初期で、ほとんどクリアな人だったそうです。入所の理由は、大腿骨頸部骨折によって車椅子による生活が不可欠だから」

「厄介だな。動けない分、口が強かったのか」

 奈直の素直過ぎる感想に、多希も頷いてしまった。

「そういうものなんですか?」

 柘植は目を見開いた。

「皆が皆そういうわけではありませんが、傾向のひとつです。ね?」

 奈直が多希を見つめ、小首を傾げた。同意を求められ、多希は「そうです」と言った。

「自分も、過去に似た性格のご利用者様と関わったことがあります。俺は今の病院に勤務する前、デイサービス併設の有料老人ホームに勤務していたのですが、そこに入所していたご利用者様の中に、そういうかたがいらっしゃいました。自分が思うように動けないのが苛々するみたいで、よく人に当たっていました。四万津さんもその人とか関わったことがあると思います」

「……知らなかった。そんな人が一定数いるんですね」

 柘植は本当に知らなかったようで、言葉を探していた。

「四万津さんの裁判は、裁判員裁判です。裁判員に与える印象次第では、四万津さんに同情してもらえて無罪に票が入るかもしれません。四万津さんがやっていないという証拠を探しながら、同情してもらえる材料を探すしかないです」

「必要あれば、俺もいち介護士として証言しますよ?」

 奈直が天ぷら蕎麦を完食し、箸を置いた。

「奈直くん、ありがとう。考えさせて下さい」

 うん、と奈直は頷き、ソファーに背中を預けて埋もれるように眠ってしまった。

「奈直くん、若いですね。よく食べて、よく寝る」

「夜勤明けみたいです」

「今も、夜勤してるんですねえ」

 多希も柘植も、奈直を横目に蕎麦をすする。

「奈直くん、本当にまだ若いんですよ。多分、20歳になったかならないか、くらいかな」

「本当に、若いんですね……!」

 学生かなとは思っていたが、本当に大学生の年齢だった。

「中卒で働き始めたみたいですよ。うちの母を見てくれていたときは、まだ介護士を目指している途中みたいでしたが、介護士になれたんですね。もしかしたら、最年少かもしれません」

「ですよね」

 介護士試験の方は、勤続年数3年のうち540日以上介護業務に従事することが受験の条件である。介護士の方も、その条件に則っている。介護士資格創設と勤続年数を考えれば、奈直は介護士に1回で合格したことになる。

「奈直くんは、本当に良いヘルパーさんなんですよ。母も僕も、奈直くんにとても救われました。今回、四万津さんの弁護を引き受けようと思ったのも、介護業務を頑張る四万津さんをこのままにしておけないと思ったからです。難しい裁判ではあるんですけどね、僕も頑張ります。全ての介護従事者に、最大限の感謝と尊敬の意を込めて」

 柘植は、寝息を立てる奈直を見て、目を細めた。まるで、仕事に疲れて帰ってきた息子を見るかのように。

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