第12話

 夜が明けた。今日も生きている。

 日が暮れる。今日も生きている。

 街路樹の八重桜がしとやかに揺れ、遠くの空は今日も結界でおおわれている。空を見上げても結界を見ている者なんて、自分くらいだろうと、多希は自虐した。

 初めて下りた駅前のコンビニで、多希は店内の隅に結界の維持装置が設置されているのを見てしまい、明るく振る舞う父親を思い出してしまった。

 多希の父親は小さな町工場を経営しており、結界維持装置の部品の孫請けをしている。多希を守るために実家と縁を切って苗字まで変えたのに、結局、生活のためには実家を切り離すことができなかった。そんな父親を、多希は馬鹿だとも侮蔑しようとも思えない。ただし、それとは別件で両親に迷惑をかけ、そのときの両親の態度は浅はかだと、今も思っている。

 飲み物を購入してから、再び店内の隅に移動し、しゃがみ込んで結界維持装置を覗き込んでみた。結界維持装置は、正常に作動しているように見える。町の空にも結界が張られているが、それとは別にコンビニで契約しているものだろう。結界は幾重にも張られ、ハナミネコとウイルスの侵入を防いでいるはずだ。それなのに、結界をくぐり抜ける個体がいる。ハナミネコの生態は未だに不明瞭なことが多い。

 考え事をしている間に視線を感じて顔を上げると、ガラスの向こう側から、しゃがみ込んで見つめられていた。ガラス越しに多希を見つめていたのは、奈直だった。

「な、ななな……」

 驚きのあまり言葉が出ない多希に対し、20歳そこそこの美青年、奈直は表情ひとつ変えない。

 多希は慌ててコンビニを出た。

「いきなり出てきて、ごめんなさい」

 奈直は、胸ポケットに刺繍の入ったポロシャツの上にカーディガンを羽織り、電動アシスト自転車を押していた。

「なんだこいつ、と思いまして」

「そうですよね。誠にすみません」

 見られてしまったことは恥ずかしいが、目撃者が見知らぬ人でなくて、かえって良かった。

「奈直さん、訪問ですか?」

「はい。今日の予定は終わりなので、一度事務所に戻ります」

「待ってます」

「りょ」

 奈直は自転車に乗り、颯爽と行ってしまった。風になびいたカーディガンの裾から、ホルスターが見えた。対ハナミネコ用の麻酔銃だ。話には聞いていたが、奈直も介護士なのだと多希は実感した。

しばらくすると、カーディガンはそのまま、ポロシャツから白シャツに着替えた奈直が徒歩で駅前に戻ってきた。

「お待たせしました。どこに行きましょう」

「ショッピングモールの中に、大手のスーツのお店があるみたいです。行ってみましょう」

 多希は今日、早番勤務だった。奈直と待ち合わせ、スーツを買いに行く約束をしていた。

 電車に乗り、ショッピングモールの最寄り駅に向かう。

「奈直さん、確か、夜勤もなさっていますよね?」

「はい。グループホームで。訪問介護は副業です」

「疲れませんか?」

「疲れたなんて、言ってられません。介護業界は人手不足です。働ける人が働かないと」

「それはそうですが」

 介護業界の人手不足は、多希も実感している。かつて、介護士試験の受験資格を得るためにデイサービスで働いていたとき、介護職員の入れ替わりが激しかった。排泄介助はすぐに慣れたが、利用者や職員間のコミュニケーションで軋轢あつれきが生じ、辞める人が多かった。

 優しい利用者は何人もいたが、価値観が歪んだ人も一定数いて、その少数派が「お客様」であることを盾にして職員の心身を蝕んでいた。

 多希の両親を含めた親世代は、客として店に行ったり、公共施設を利用するときは、職員を立てるものだと認識しているが、その上の世代でデイサービスの利用者の「少数派」は、「『お客様は神様です』の精神でもてなすのがヘルパーの常識だろう」と言い張った。提供された食事を平気で捨てたり、止めたにも拘らず掃除する前のトイレに無理矢理入り「掃除もしないのか!」と怒鳴るのは日常茶飯事だった。

 多希が見た中で酷かったのは、普段から「『言葉の暴力』は『暴力』というフレーズが便宜上使われているだけであって、実際は暴力ではない」と豪語した人だ。「介護職員に給与は支払うな」と運動を起こそうとしたが、監査に来た役所の職員に虚偽の虐待被害を訴えたが、すぐに虚偽だとわかり、他所の施設に引っ越しを余儀なくされた。

 多希に仕事を教えてくれた四万津しまづは、心身の回復がとてつもなく早かった。四万津は第1回介護士試験の合格者で、当時は40歳。最年長の介護士だった。どの入所施設も、夜勤業務にひとりは介護士を配置しなくてはならない。介護士でない多希も夜勤業務は行ったが、四万津と組むことが多かった。

 看護師として3年近く働いていたにも拘らず、タイミングが合わず看取みとりをしたことがなかった多希が、四万津と夜勤をした際に入所者が息を引き取る瞬間に立ち会ったことがある。施設長や主治医に報告をしなければならないのだが、四万津はそれを多希にやらせた。多希も、後輩である自分の仕事だと自覚していたが、体がすくんで声が出なかった。そんな多希に、四万津は必要なフレーズを教え、報告を促した。報告の後、エンゼルケアもも、四万津は多希と一緒に行い、多希が弱音を吐いても否定せずに耳を傾けてくれた。四万津と仕事をしたのは1年くらいだったが、四万津がいなければ、多希はとっくに介護士を目指すことを諦めていただろうし、看護師として働き直すこともなかった。

 介護士の資格を取得しても働かない「潜在介護士」が増えているという。そんな中、四万津は無実で釈放されてほしいし、奈直には心身ともに健康で働き続けてほしい。多希は多希で、介護士の資格を取って看護師兼介護士として働きたい。看護師兼介護士として働いている人は、実際にいるらしい。

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