第2章
第7話
南北に長い島国、
現在の首都である
東都、西都の通称を、正式名称として使っている場所もある。そのひとつが、裁判所だ。江京の裁判所は「東都地方裁判所」が正式名称となっている。
その東都地方裁判所にて、第一審が行われる裁判がある。
夜勤明けの翌日、多希は初めて裁判所に足を運び、傍聴席に腰を下ろした。一度は世間の注目を浴びた事件なのに、傍聴席の人はまばらだ。もう関心は持たれていないらしい。
9時50分、開廷。
人定質問。被告人が検察官により起訴された者に間違いないかどうかを確かめる。被告人は、
証言台に立ったかつての先輩の背中を眺め、多希は何とも言えない虚しさを感じた。仕事を教えてくれた介護士の先輩は、こんなにも小さい背中をしていたのか。
検察官が起訴状を朗読していると、傍聴席にひとり入ってきて、扉の近くの席である多希の隣に腰を下ろした。
ふわり、とシャンプーの香りが鼻をくすぐり、多希は思わずそちらに目をやってしまった。
隣にいたのは、若い青年だった。法律に興味がある大学生に見えなくもない。おそらく、多希より小さい。乾き切っていない襟足の長い黒髪を気にするように手櫛で梳いたとき、横顔が見えた。儚げで美しい相貌をしている。昨日、病院のピアノでラジオ体操を弾いた人を思い出した。顔は見ていないが、特徴は似ている。
青年が多希の視線に気づき、小首を傾げた。多希も会釈を返し、傍聴に集中することにした。
事件の内容は、多希には信じられないことばかりだった。
四万津顕は、東都にある特別養護老人ホーム「すもも苑」に勤める介護士。夜勤の最中に、施設内にハナミネコが侵入し、麻酔銃で眠らせて保健所にハナミネコを引き渡した。その際、起きていた入居者のひとりが、持ち込み禁止のはずの携帯電話で警察に通報し、四万津に殺されそうになったと訴えたのだ。
「すもも苑」に警察の捜査が入り、施設に張られていたはずの結界が解けていることがわかった。警察に通報した入居者は、「四万津が結界を解いてハナミネコを侵入させ、自分を殺そうとした」と警察に話した。それ以前にも、四万津はその入居者を標的にして虐待をしていたという話になった。
四万津の方は、殺人未遂を否定した。結界を解くなど誰もできるはずがない、と。四万津は入居者に以前から嫌がらせを受けており、ありもしない虐待をでっち上げられたり、殴る蹴るなどの暴行を受けていた。
殺人未遂を訴えた入居者の老人は、普段から「男のヘルパーなんか気持ち悪い」と公言し、「男のヘルパーは、その銃で俺達を殺す予定なんだよ!」と、四万津を含めた男性介護職員を非難して他の入居者に言いふらし、四万津よりも他の職員が精神的に疲れていた。
起訴内容と被告人の言い分は食い違っている。
多希は、先輩の無実を信じたい。だが、いつかの言葉を思い出すと、信じる気持ちが揺らいでしまう。
――俺、術式が解けちゃうかも。
そう言ったのは、四万津だったのだ。
本当に結界の術式を解いてしまってもおかしくない、と信じたい四万津を疑ってしまう。
多希の知るデイサービス兼「サービス付き高齢者向け住宅」に勤めていた四万津は、愚直で無骨な優しい人だった。だが、それは裏の顔。人前では、陽気な性格を演じ、休憩時間は充電が切れたようにぐったり寝ていた。趣味はサバイバルゲームだというが、それを利用者に話すことは決してしなかった。ハナミネコから利用者を守るとはいえ、麻酔銃を携帯して業務を行う者である以上、誤解を与える内容は話さなかった。
利用者や職員からの評価は、大きく二分していた。四万津を熱烈に気に入る者と、心底嫌い嫌がらせをする者。
四万津は介護の仕事に対して矜持を持っていた。「利用者様は眠っているとき、どんな夢を見ているんだろう」とよくぼやいていた。四万津が言うには、ご利用者様は夢の中で認知症も無く、自分の足で歩いているのだという。朝起きたときに絶望してしまわぬよう、今の生活も悪くないと思って頂ける日常を提供したい、と言っていた。
四万津を気に入らない利用者が、四万津が配膳した食事をわざとテーブルから落としたり、殴る、蹴る、叩くという行為にはしることもあった。四万津は毅然として対応し、施設長に報告した。施設長は四万津の愚直な報告を信じ、四万津を守ろうとした。
多希が四万津と一緒に働いていた期間は、1年間くらいだった。収入の面で厳しいところがあり、四万津は特別養護老人ホーム「すもも苑」に転職したのだ。
もしも四万津に有罪判決が出たら、介護士資格は剥奪され、世間の介護士に対する風当たりが強くなってしまう。そうなってしまったら、介護士を目指す人も、介護士を続ける人も少なくなってしまう。
というか、よくこんな証拠不十分で起訴できたな。よほど起訴したかったのか。多希は四万津が吊し上げに遭っているように見えてしまい、四万津を助けられない自分に力不足を感じた。
肩にずしりと重みを感じ、傍らに目をやると、隣の美青年がぐったりと多希に寄りかかっていた。
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