第6話

「そうです。愛美さんがお忙しそうだとは思っていましたが、俺は明日は休みの予定で、時間によっては電話に出られなそうなので……すみません。俺の都合で」

『いえいえ、今日は一区切りついたので大丈夫ですよ。なんか、申し訳ありません……お姉ちゃん、席を外してくれる? 仕事の話をするの!』

 電話の向こうにいる姉に、愛美は声をかけた。姉の亜依子が離れた場所から声を張る。

『荻野多希! あ、今は緑埜多希か。愛美に何かあったら許さないからね!』

 昔の苗字を出され、多希はひやりとした。あの頃のことは、思い出したくない。

『お姉ちゃん! それは失礼でしょう! 多希さん、ごめんなさい! 姉が……』

「あー……良いんです。亜依子のああいう態度には、慣れていましたから」

 嘘だ。慣れることなんか、無い。自覚したくないが、今も傷ついている。

『本当に、ごめんなさい。実は私も、姉から多希さんのことを以前から聞いていて、知っているんです。その上で多希さんには、先生……橘子さんの担当の看護師さんになってほしいと病院にお願いしたんです』

「亜依子め……」

 一体何を話したんだ、という言葉が出そうになったが、多希はぐっと抑えた。

『多希さんだけじゃないんです。他の人のことも、姉はSNSとかで探りを入れて、誰にでも喋っちゃうんです。実は、多希さんの子どもの頃からの話も、以前から姉から聞いていました。それで、多希さんとお会いしたときに、姉の話に出てきた人だと思って、やっぱり、と言ってしまいました』

 あのときの「やっぱり」は、そういう意味だったのか。

『あと、多希さんが介護士を目指していることも、姉が話していました。姉は、小学校からの友人から噂として聞いていたみたいです。介護士の知識がある多希さんなら、橘子さんを安心して任せられると思いました』

「大げさです。俺は介護士試験を受けましたが、介護士ではありません。ただの看護師です。それも、男ですよ。橘子さんも周りのかたも、嫌ではないのですか?」

『嫌なんかじゃないです!!』

 愛美の越えが、キン、と鋭い音と化し、多希の鼓膜を突いた。

『私の見立ては間違っていないと思っています! 多希さんは、看護にも介護にも矜持を持ったかたです! そんなかたに、厚生労働大臣のお世話をお願い申し上げたいのです! 橘子さんは以前、別の理由で入院したことがありますが、担当だった女性の看護師は、橘子さんにも担当医にもやたら機嫌を伺って、橘子さんはあまり良い気がしなかったそうです。それに引き換え、多希さんは橘子さんにも担当医にも媚びない、しっかりしたかたです。男だからとか、下らない理由で卑屈にならないで下さい』

 それに、と愛美は付け加える。

『多希さんにお話ししたかったことが、もうひとつ。橘子さんが予定している、地方訪問についてです』

「ああ、それは……あの脚では」

 橘子は脚を骨折し、まだ歩ける状態になっていない。それなのに、地方訪問を予定通り行うという。

『橘子さんが訪問を中止か延期しないのは、理由があるんです。訪問の話は、県知事から持ちかけられ、橘子さんが応じる形だったんです。その県知事はいわゆる政敵で、もともと橘子さんと違う派閥の政治家の先生でした。橘子さんが厚生労働大臣になって感染症の対策に関わるようになってから、一層敵視するようになりました。今回の訪問で、橘子さんは敵陣に招かれる形になります。断ったり予定を変更するようなことがあれば、知事に何を言われるか、わかりません。地方はただでさえ、ハナミネコの侵入を防ぐ結界が都市部よりも手薄になってしまいます。内閣の人間が、それも厚生労働大臣がハナミネコウイルスに感染するようなことがあれば、信用が地に落ちてしまいます。そうならないために、多希さんには、厚生労働大臣、佐々木橘子氏の担当看護師として、訪問に同行してもららいたいのです』

「えっと……ちょっと待って下さい」

 話が飛躍した。

『話が飛躍したのはわかっています。担当医の先生は、都市部から離れたくないと同行を断られました。多希さんが荷が重いとお感じになるのなら、断っても全然構いません。そのことで多希さんが信頼を失うことはありません。万が一、ハナミネコウイルスに感染して命を落とす方が大変ですから』

「それは全然構いませんよ」

『え……?』

 愛美が、電話の向こうで言葉を失った。失言した、と多希はあせった。

「あ、いや、訪問に同行するのは全然嫌ではないです」

『本当ですか⁉ ありがとうございます。介護士さんにも同行してもらうつもりなので、多希さんは看護師のお仕事をして下さい。橘子さんのこと、どうかよろしくお願いします』

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 妙な話になってしまった。ちなみに、橘子の脚の骨折は、公休日に庭の木に上って枝を剪定しようとしたら木から落ちたらしく、敵対する知事は関係ないらしい。

 通話が終了し、多希は何気なくカーテンを開けて部屋の窓から外を見てみた。夜の街は、暗く沈んでいる。昔はもっと夜も明るかったはずだ。ハナミネコとそのウイルスによる感染症が蔓延するようになり、何もかも変わってしまった。

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