第5話

 VRゴーグルの視界の隅で、連携したスマートフォンの通知を知らせるマークが表示された。それも、続々と、前職や学生時代の知り合いから。

 通知を無視していたら、父親から電話が来てしまった。

 多希はVRゴーグルを外し、父親からの電話に応答する。

「……ご無沙汰しています」

『何だよ、遠慮すんな』

 電話の向こうの父親の声は、昔と変わらず明るい。

『それより多希、有名人じゃないか。病院でラジオ体操とアニソンを弾いてパニックを収めたんだって? すごいじゃないか。一体どんな状況だったんだ』

「すごいのは俺じゃなくて状況ですよね?」

 父親が言っているのは、多希が昼間見た動画のことだろう。多希が病院の待合スペースでピアノを弾く多希が勝手に撮影され、ウェブで拡散された。

「人間国宝のかたが亡くなったじゃないですか。その人が入院していたのがうちの病院だったんじゃないかと噂になって、外来の待合スペースがパニック状態になったんです。そのときに、誰がピアノでラジオ体操を弾き始めて、介護士が先頭切ってラジオ体操の見本をやってくれて、待合スペースにいた人達も体験をしてくれたんです。ピアノを弾いてくれて人はすぐにどこかに行ってしまったのですが、アンコールが止まず、俺が弾ける曲を……俺自身も、どんな状況なのか理解できていません」

『うん。多希が今もピアノが弾けるイケメンだということはわかった。流石、俺の息子』

「あの……その動画のコメントで、俺が総理大臣と息子に似ていると書かれていて……」

 父親が電話の向こうで一瞬黙り、明るい声に戻った。

『……気にするな。お前は悪くない』

 父親こそ、昔大変な思いをしたのに、決して苦労は語らず、明るく振る舞っている。今も、苦しい状況は続いているのに。

「母ちゃんは元気ですか?」

『元気にやってるよ。ちゃんとワクチンも注射ったし、怪我も病気もしていない。うちのことは心配すんな。母ちゃんは俺が守るから、多希はお年寄りを守ってやれ』

「……ごめんなさい。実は、今年も」

『そういうことを言ってるんじゃない。介護士じゃなくてもできることがあるんじゃないか……そうは言っても、多希は介護士にしかできないことがやりたいんだろうけどな。多希は真面目過ぎるんだ。深呼吸しろよ』

『親父……ありがとうございます』

 言葉を選んで息子を励まそうとする父親似に、多希は感謝と申し訳なさで胸中がごちゃまぜになる。多希がそんな消極的な気持ちを抱えているのに、父親は噴き出した。

『お前、敬語……! 親にそんな気を遣うな! 親父って言いながら敬語だと、何と言うか、任侠……!』

「用が無いなら、電話切りますよ、親父」

『うん、用は無い。多希の声が聞きたかった。じゃあ、おやすみ。生きろよ、多希』

 通話が終了した。すぐに父親からメールが来る。

 ――新古今しろよ! 活きろよ!

 深呼吸しろよ、生きろよ、と再度言いたいらしい。

 予測変換ミスに父親の根明ねあかで大らかな性格が出ていて、多希は顔が綻んでしまった。

 他の人からのメールを確認するとどれも同じ内容だった。多希がピアノを演奏する動画を見たという。今は世間を騒がせているが、すぐにほとぼりが冷めると信じたい。その予想が外れれば、多希の個人情報が漏洩し、昔のことが世間にしられてしまう。既に知っている人も少なくはないが、あまり広めなくない。父親が「生きろよ」と強調するのも、多希の過去に原因がある。

 VRゴーグルとモデルガンを片づけ、就寝の準備をすることにした。明日は休みだ。行きたいところがある。

 連絡先を交換した栗木愛美から連絡は来ない。常に忙しそうな人ではあるが、まだ忙しいのかもしれない。

 しばらく迷った末、多希から愛美に連絡してみることにした。

 電話かメールか。変な誤解をされないだろうか。文面に残したくない話だろうか。早いうちに訊ねたらしつこいと思われないだろうか。

 公務に関する内々の話もあるかもしれないと思い、電話をかけてみることにした。

 1コール目で、応答があった。

『なんで多希が愛美の連絡先を知ってんの!』

亜依子あいこ⁉」

 電話の相手は、愛美ではなかった。小学校時代の同級生で、愛美と同じ苗字の亜依子だった。声が昔と変わらない。

「愛美さんのスマホじゃないんですか……⁉」

『愛美のこと、気安く下の名前で呼ぶんじゃないの! あんた、愛美に変な気を起こしてるんじゃないでしょうね!』

「無いです、無いです。亜依子は、愛美さんとどういう関係?」

『あんたこそ、愛美とどういう関係⁉』

 ちょっとお姉ちゃん、と慌てた声が割り込んだ。今度こそ、愛美だ。

『もしもし、多希さん? 愛美です。すみません。お風呂に入っている間に、姉が電話に出てしまって』

 お風呂に入ったなんて言わなくても良いの、と電話の向こうで亜依子が吠えた。

「亜依子……さんは、お姉さんだったんですね」

『そうなんです。旦那さんと離婚調停中で、私の家に転がり込んでいるんです』

「負けたくないとか言っていませんでしたか?」

『言ってました。多希さん、詳しいですね』

「昔から勝ち負けにこだわる人でしたからね、なのに」

『多希さん、上手いです』

 秘書の仕事中も愛美は愛想が良いが、オフだともっと、特に身内の話になるとくだけた感じになるらしい。

「すみません、愛美さんが亜依子の妹さんだとは気づかずに。小中学校、俺達と同じでしたよね?」

『姉とは2歳差なんですけど、顔が似ていないとよく言われるんです。それに、私は小学校から私立に通っていたんで、多希さんと面識は無かったはずです。姉妹なのに、出身校は小学校から大学まで全く別です』

「あ……そうだったんですね」

『ところで、多希さん。昼間のことで連絡を下さったんですよね?』

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